オーストリア継承戦争は、1748年、アーヘンの和約によって終結します。プロイセンは狙い通りシュレジエン割譲を認めさせることに成功します。ただ同時に、マリア・テレジアによるハプスブルク家の家督相続を認めさせられ、さらに彼女の夫フランツ・シュテファン(後のフランツ1世)を神聖ローマ皇帝へ推挙することを約束させられます。

 オーストリア継承戦争で、オーストリアからシュレジエンを譲り受けたフリードリヒ2世は、国勢を大いに伸展させます。当時のシュレジエンの人口は約150万人だったと言われています。この地を併合することで、プロイセンの人口は一気に400万人へと増えたのです。これによりプロイセンはヨーロッパの列強の仲間入りを果たし、フリードリヒ2世は人々から「大王」と呼ばれるようになったのでした。ただ、一方のマリア・テレジアは、シュレジエンの割譲をさせられたことを、強く恨むのです。

プロイセン、「列強」の仲間入り

 シュレジンの奪還を目指すマリア・テレジアは、なんと長年の宿敵であったフランスのブルボン家と提携するという決断をしました。ブルボン家とハプスブルク家との同盟は、「外交革命」と呼ばれるほどヨーロッパ史において画期的なことなのです。さらにオーストリアは、ロシアとも結んでプロイセンの国際的孤立を図るのです。

 これに対してフリードリヒ大王はオーストリアを攻撃します。こうしてヨーロッパの国々を巻き込むこととなる「七年戦争」(1756〜63年)の火ぶたが切られました。

 この七年戦争では、ヨーロッパの大半の国がオーストリアを支持し、プロイセンの味方になったのはイギリスだけ。プロイセンは劣勢を強いられていましたが、1760年にロシアで、フリードリヒ大王を崇拝していたピョートル3世が皇帝になると情勢は一変します。1763年のフベルトゥスブルク条約で、プロイセンは再びシュレジエンの領有をオーストリアに認めさせるに成功しました。

 こうしてプロイセンは、何度もオーストリアと戦いながら、最終的にシュレジエンを手中に収めます。同時に、ヨーロッパの弱小国だったプロイセンは、一躍イギリスやフランスと肩を並べる「大国」になります。

 プロイセンが大国化できたのは、その軍事力のお陰でした。プロイセンは、国の規模に比べて軍事力が異常に膨れ上がった軍事国家だったのです。プロイセンの常備軍は18世紀を通じて増え続けます。1688年には3万人であったのが、1740年には8万1000人に、1786年には19万6000人になったのです。当然ですが軍事支出も大きくなりますので、プロイセンはより多くの国庫収入を図る必要がありました。こうしてプロイセンの財政規模は、【表1】に見られるように、みるみる膨らんでいったのです。

【表1】 プロイセンの総収入と総支出 1688〜1764年(単位:ターレル)
(r=歳入、e=歳出)
出典:http://www.esfdb.org/table.aspx?resourceid=11774
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