イングランド産の毛織物のほとんどは、まずはロンドンに集積され、そこからネーデルランドのアントウェルペン(アントワープ)に送られていました。近世イングランドの毛織物の輸出において、ロンドンが全体の8〜9割を占めていたのです。

 また一般には、完成品ではなく半完成品の輸出をするのは低開発国のビジネスとみなされます。経済の先進国は、中間財ではなく、完成品を売るものなのです。その点からしても、イングランドは経済的にも二流の地位に甘んじていました。

 しかも、未完成の毛織物を輸出する市場はほぼアントウェルペンに限定されていました。アントウェルペンは当時、ヨーロッパを代表する国際都市の1つで、毛織物の染色・仕上げ工業が発達していたのでした。ですから、言ってみればロンドンはアントウェルペンに隷属する「衛星都市」だったわけです。

 ここで、イングランドの毛織物の輸出量を見てみましょう。

表1 ロンドンからの標準毛織物輸出量 単位:反
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 表1にあるように、16世紀前半は輸出増の時代でしたが、後半になると増えなくなります。まず16世紀前半に輸出が増えた理由は、イングランドで貨幣の銀含有量を低下させる「悪鋳」が行われたため、ポンドの価値が下落。これが輸出には好都合に働きました。

 それがエリザベス1世の時代には、「悪貨が良貨を駆逐する」の言葉で有名な国王の財政顧問トーマス・グレシャムの進言により、改鋳が行われました。するとポンドの価値が高くなり、輸出量は伸びなくなりました。エリザベス1世は、通貨改革を実施した結果、今度は輸出の大ブレーキに悩まされることになるのです。

 そこでイングランドは、西欧以外の地域に毛織物の輸出先を求めました。1551年にはモロッコに、1553年にはギニアに船が送られ、さらに同年、ロシアとの交易を目指し、スカンディナヴィア半島の北側を廻る北東航路での航海が実施されます。1570年代には、レヴァント地方(地中海東部地方)と直接貿易することが試みられました。こうした試みは、やがてイギリスが帝国を形成する端緒となっていくのです。

 またイングランドは、多くの船舶を建造する必要から、木材資源が豊富なバルト海地方から海運資材を輸入します。それらは、スカンディナヴィア半島とデンマークのシェラン島の間に位置するエーアソン海峡を通って輸入されました。この海峡のデンマーク側にあるのがクロンボー城であり、そこを通る船舶はデンマーク王室によって巨額の通行税を課せられていました。

 シェークスピアの『ハムレット』の主人公ハムレットがデンマークの王子であり、クロンボー城に住んでいたのは、このような事実を下敷きにしています。この点では、シェークスピアの作品は事実を正確に描写していると言えます。

「販路開拓」が植民地獲得への基盤固めに

 毛織物の販路を拡大するため、イングランドではさまざまな工夫がなされました。それまでは厚手の毛織物が主流でしたが、オランダから技術を導入して、薄手の毛織物が作られるようになります。このことで、それまでの北海・バルト海地方市場ではなく、薄手の毛織物に適した地中海市場へと重心を移すことが出来ました。

 また毛織物のビジネスから外国人商人を排除する傾向も強まりました。この「経済的ナショナリズム」により、ロンドンは、アントウェルペンの影響下から次第に離脱していくのでした。

 シェークスピアの活躍がその戯曲によって、華やかに見えるエリザベス時代ですが、経済的に見れば、主要産業の毛織物輸出が落ち込み、パッとしない時代でした。この時代は、不況からの脱出の道を模索し続ける期間といえます。エリザベス1世の時代には、その落ち込みを補うため、ドレークやジョン・ホーキンスといった海賊たちに、敵国の船を攻撃することを許可し、そこから利益を得たり、彼らに密かに奴隷貿易を行わせたりしていました。彼女の治世には、そうした黒い一面もあったのです。

 そして、それらの行為が、やがて始まる新世界での本格的な植民地開発に結び付いてゆくのでした。テューダー朝は、そのための準備をしたといえるでしょう。