このバラ戦争も紐解けば数々のドラマがあるのですが、今回はさっと触れるだけにしておきましょう。ランカスター家から王位を奪ったヨーク家が、ヨーク朝を打ち立て、3人の王を輩出しますが、1485年8月にランカスター家の一族であるリッチモンド伯ヘンリ・テューダーが、ヨーク朝の王・リチャード3世を敗死させ、バラ戦争を終結させます。
このヘンリ・テューダーが、ヘンリ7世(在位:1485〜1509年)として王位につき、新たにテューダー朝を開くのです。
テューダー朝を美化したシェークスピア
ランカスター家の血筋だとはいえ、テューダー家はウェールズ出身で、家系的にはランカスター家の傍流に過ぎませんでした。一説にはヘンリ7世は自分にとって都合の悪い史料は焼却したといわれており、その家系は今なお謎に包まれた部分があります。
そうした背景もあってか、ヘンリ7世は、「バラ戦争の時代にイングランドは荒廃してしまった、リチャード3世は非常に悪辣な王だった」と宣伝しました。しかし、これは自らの王位の正当性を主張するためだったと考えられます。
30年に及ぶバラ戦争ですが、実は戦闘自体はごくわずかで、民衆を巻き込むこともなかったようですし、戦闘によって市街地や農地が荒廃することはほとんどなかったようです。
また現在では、「リチャード3世は醜悪な暴君だった」との評価に異議を唱える人々もおり、従来の人物評の妥当性も揺らぎ始めています。ただ明確に言えるのは、そのような評判が定着したのは、シェークスピアが、エリザベス1世の時代に書き上げた戯曲『リチャード3世』で、彼を稀代の奸物として描いた影響が非常に大きいということです。結果的にシェークスピアの作品は、テューダー朝を擁護する役割を果たしたのです。
その一方で、イギリス史においてはテューダー朝こそが近代史の出発点であり、その路線を敷いたのがヘンリ7世であるとも言えます。テューダー朝の時代に、現代のイギリスの枠組みは形成されたのです。
カトリックから離脱するイングランド
テューダー朝を開いたヘンリ7世の時代には、王権に反対する貴族を裁くため、ウエストミンスター宮殿の星の間に「星室庁裁判所」が設立されます。これにより王権の強化が図られました。
ヘンリ7世の死後、王位を継いだのは、息子・ヘンリ8世でした。ヘンリ8世は、王妃キャサリンとの間にもうけた子で、元気に育ったのはメアリという女の子だけでした。王位継承のためには男子を、と考えたヘンリ8世は、キャサリンと別れ、彼女の侍女アン・ブーリンとの結婚を願うようになります。
しかし、彼が帰依するカトリック教会は離婚を認めていません。ただ抜け道もありました。ヨーロッパの王族・貴族はそれぞれが複雑な血縁・婚姻関係で結びついているため、「この結婚は血縁関係同士の結婚なので、そもそも無効であった」という理屈をつければ実質的な「離婚」は可能だったのです。ヘンリ8世が「離婚」を申し出たのは、当時の国王としては別に不思議なことではなかったのです。
しかしこのとき、ローマ教皇はヘンリ8世の離婚を許可しませんでした。そこで、ヘンリ8世は離婚を強行するため、1534年に国王至上法を制定し、イングランド国王がイングランド国教会(いわゆる「イギリス国教会」)の長となり、ローマ教皇を頂点とするカトリック教会とは決別する道を選びます。これがイングランドの宗教革命の嚆矢となりますが、この時の国教会は、プロテスタントというよりも、「ローマ教皇の支配から離脱したカトリックの一派」という位置付けでした。