日本の大規模な公害は、鉱山採掘による「鉱害」から始まった。その代表が、四大鉱害といわれる足尾銅山(栃木県)、別子銅山(愛媛県)、日立鉱山(茨城県)、小坂鉱山(秋田県)での鉱害事件である。特に足尾銅山は、被害の発覚から事態の収束まで100年近くに及ぶ長期的な問題となり、日本の公害史全体を見ても極めて重要とされてきた。
前回の記事:「足尾と水俣が数十年にわたる大公害事件となった理由」(http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/53852)
「足尾銅山事件で教訓にしなければならないのは、事業者側の被害者対応の稚拙さです。企業がどれだけ誠実に被害者と向き合えるか。それ次第で、後々の企業の負担も、企業のイメージも変わるのです。それは、日立鉱山や別子銅山の鉱害被害に対する事業者の対応と比較することでもよく分かります」
このように話すのは、國學院大學法学部の廣瀬美佳(ひろせ・みか)教授。当時の鉱害事件や、その被害者対応から学べることは何なのか。前回に続いて、足尾銅山事件を中心に振り返りつつ、他の鉱害事件と比較しながら考えたい。
なぜ政府の調査でも「事業者責任」が追及されなかったのか
――前回、足尾銅山事件の発端について伺いました。1880年代、渡良瀬川の氾濫を契機に問題化すると、1895年に事業者側の古河鉱業(現:古河機械金属)は鉱害被害を主張する村々と「永久示談契約」を締結していきました。被害者にはそれなりの賠償金が支払われましたが、自分たちの事業が原因だとは認めなかったとのことでしたね。
廣瀬美佳氏(以下、敬称略) はい。加えて、根本的な「発生源対策」を行わなかったため、それ以降も渡良瀬川の氾濫とそれに伴う鉱害の拡大は続きます。被害住民は抗議のために多数で上京し、政府に対策を陳情する「押出し」を1900年までに4度行いました。
第1次押出し(1897年)のあとには、政府も第1次鉱毒調査委員会を設置し、古河鉱業に対し「鉱毒予防命令」を出します。しかし、それは徹底されず押出しが続きました。