江戸幕府8代将軍、徳川吉宗が成立させた「公事方御定書」は、「更生」の概念をはじめて取り入れた画期的な法典だった。そして、さらに「更生」の面を進化させたのが、孫である老中の松平定信がつくった「人足寄場」という施設だった。
前回の記事:「手厚い“更生”施設、松平定信の『人足寄場』」
「定信は、吉宗の没後に生まれています。ですから祖父に直接会うことはなかったのですが、2人は同じ姿勢や思想を持っていたといえます。それは『庶民に寄り添う』ということです。実際、2人が同じ思いを抱いていたことが分かる“遊楽の地”があります。福島県白河市の南湖(なんこ)公園がそれです」
そう話すのは、法律の歴史を研究する國學院大學法学部の高塩博(たかしお・ひろし)教授。南湖公園の成り立ちを紐解けば、時代を経て引き継がれた吉宗と定信の大切な思想が見えるという。江戸時代における法の歴史を追ってきた本連載の最終回として、法に変革を起こした2人の為政者が描いた理想を追う。
福島の南湖に込められた「士民共楽」の思い
――吉宗と定信のつながりが分かるものとして、先生は南湖公園を挙げられました。いったいどういう意味でしょうか。
高塩 博 氏(以下、敬称略) 南湖公園の成り立ちを知れば、定信の姿勢が明らかに吉宗とつながっていることが分かるはずです。まずは、南湖公園の歴史を説明しましょう。
南湖公園は、福島の白河藩主だった松平定信が、1801(享和元)年に完成させたものです。現在は公園制度に基づいて「南湖公園」と呼ばれていますが、当時は「南湖」という名称でした。この記事でも「南湖」と呼ぶことにします。なぜなら、定信の思想を理解する上で、その呼び名が重要になってくるからです。
定信は、いくつかの目的を果たすために、南湖の開削作業にとりかかりました。目的の1つは田んぼの「灌漑用水の確保」、また1つは「操舟訓練や水練の場所の確保」などです。後者については、海から遠い地域ゆえの対策といえます。
さらに、開削の際には労働力として白河藩領内の人々を雇いました。公共事業や福祉事業の面もあったと言えます。文字通り、複合的な役目を果たしました。