若い頃から、法律を学んでいた江戸時代の8代将軍・徳川吉宗。彼が成立させた「公事方御定書」は、それまで希薄だった「更生」の概念を取り入れ、犯罪者がもう一度社会に戻れるように配慮した刑罰が採用された。それが「敲(たたき)」の刑罰だという。
前回の記事:「吉宗の法典で大転換、罪人に開かれた『更生』への道」
「現代人からみると、“野蛮な刑罰”というイメージを抱くことと思いますが、『敲』こそ更生への思いが強く現れた刑罰です。なぜなら、吉宗は敲という刑罰の中に、罪人が社会復帰できるための“さまざまな工夫”を施しているからです」
こう話すのは、法律の歴史を研究する國學院大學法学部の高塩博(たかしお・ひろし)教授。吉宗はどのような工夫を「敲」の刑罰に込めていたのか。同氏の解説を聞いてみよう。
多くの人の前で執行した「敲」。そこにある2つの狙い
――「公事方御定書」において、「敲」とはどんな刑罰だったのでしょうか。
高塩 博 氏(以下、敬称略) 前回も紹介しましたように、「公事方御定書」は「入墨」(いれずみ)とともに、「敲」というムチ打ちの刑を定めています。
「敲」の刑は、軽微な盗みの犯罪に適用します。もっとも軽いときに50敲、やや重いときに100敲、さらに重いときには入墨のうえ50敲、あるいは入れ墨のうえ100敲を適用します。窃盗罪であっても、10両以上に達する金品を盗みますと、「死罪」という名の死刑に処されます。
盗みは“犯罪の王様”と称されています。他の犯罪に比べて発生件数が圧倒的に多いからです。この傾向は今も昔も代わりありません。また、洋の東西を問いません。このような性質を持つ盗犯に敲を適用したことが、注目されなければなりません。