佐久間長敬著『刑罪詳説』より、小伝馬町牢屋敷門前での敲刑の執行風景。そばには医師も控えていた(図中の“十”)。(写真:国立国会図書館

 若い頃から、法律を学んでいた江戸時代の8代将軍・徳川吉宗。彼が成立させた「公事方御定書」は、それまで希薄だった「更生」の概念を取り入れ、犯罪者がもう一度社会に戻れるように配慮した刑罰が採用された。それが「敲(たたき)」の刑罰だという。

前回の記事:「吉宗の法典で大転換、罪人に開かれた『更生』への道

「現代人からみると、“野蛮な刑罰”というイメージを抱くことと思いますが、『敲』こそ更生への思いが強く現れた刑罰です。なぜなら、吉宗は敲という刑罰の中に、罪人が社会復帰できるための“さまざまな工夫”を施しているからです」

 こう話すのは、法律の歴史を研究する國學院大學法学部の高塩博(たかしお・ひろし)教授。吉宗はどのような工夫を「敲」の刑罰に込めていたのか。同氏の解説を聞いてみよう。

國學院大學法学部教授の高塩博氏。昭和23年(1948)生まれ。國學院大學大学院法学研究科修了。同大學日本文化研究所助教授・教授を経て、同大學法学部教授。日本法制史専攻。法学博士。法制史学会理事、法文化学会理事、公益財団法人 矯正協会理事。近年は江戸時代の刑事法制を中心に研究を進めている。主要著書に『江戸時代の法とその周縁―吉宗と重賢と定信と―』(汲古書院、平成16年)、『近世刑罰制度論考―社会復帰をめざす自由刑―』(成文堂、平成25年)、『江戸幕府法の基礎的研究』論考篇・史料篇(汲古書院、平成29年)、など。

多くの人の前で執行した「敲」。そこにある2つの狙い

――「公事方御定書」において、「敲」とはどんな刑罰だったのでしょうか。

高塩 博 氏(以下、敬称略) 前回も紹介しましたように、「公事方御定書」は「入墨」(いれずみ)とともに、「敲」というムチ打ちの刑を定めています。

「敲」の刑は、軽微な盗みの犯罪に適用します。もっとも軽いときに50敲、やや重いときに100敲、さらに重いときには入墨のうえ50敲、あるいは入れ墨のうえ100敲を適用します。窃盗罪であっても、10両以上に達する金品を盗みますと、「死罪」という名の死刑に処されます。

 盗みは“犯罪の王様”と称されています。他の犯罪に比べて発生件数が圧倒的に多いからです。この傾向は今も昔も代わりありません。また、洋の東西を問いません。このような性質を持つ盗犯に敲を適用したことが、注目されなければなりません。