佐久間長敬著『刑罪詳説』より「追放者廓外門前払ノ図」。「公事方御定書」以前に行われていた「追放刑」は江戸の町の治安維持を狙ったものだが、矛盾や弊害も抱えていた。(写真:国立国会図書館

 江戸時代の8代将軍、徳川吉宗によってつくられた「公事方御定書」。編纂開始からおよそ10年の歳月を費やして成立したこの法典は、若い頃より無類の法律好きだった吉宗が、中国の「明律」(みんりつ)をはじめとする律令法を研究し、それを日本の社会に適するようにアレンジして作った、当時としては画期的なものだったという。

前回の記事:「暴れん坊将軍の作った法律はこんなに画期的だった!

「『公事方御定書』において重要なのは、それまでの考え方から大きく転換して『更生』を目指す刑罰を定めていることです。当時はまだ希薄だった、『犯罪者がもう一度社会に戻れるように配慮した刑罰』が採用されているのです」

 そう解説するのは、法律の歴史を研究する國學院大學法学部の高塩博(たかしお・ひろし)教授。吉宗がこの法典に「更生」の要素を入れたことについて、「明律との関係性」を紐解きながら解説してもらった。ここでは、吉宗がなぜ更生にこだわったのか、詳しく聞いていきたい。

國學院大學法学部教授の高塩博氏。昭和23年(1948)生まれ。國學院大學大学院法学研究科修了。同大學日本文化研究所助教授・教授を経て、同大學法学部教授。日本法制史専攻。法学博士。法制史学会理事、法文化学会理事、公益財団法人 矯正協会理事。近年は江戸時代の刑事法制を中心に研究を進めている。主要著書に『江戸時代の法とその周縁―吉宗と重賢と定信と―』(汲古書院、平成16年)、『近世刑罰制度論考―社会復帰をめざす自由刑―』(成文堂、平成25年)、『江戸幕府法の基礎的研究』論考篇・史料篇(汲古書院、平成29年)、など。

中国法に示唆を得ながら考え出した「懲して善に進む」の概念

――「公事方御定書」は、それまでの刑罰に加えて、犯罪者の社会復帰を意味する「更生」にこだわった刑罰を取り入れたと伺いました。どういうことでしょうか。

高塩 博 氏(以下、敬称略) 「公事方御定書」ができる前、江戸時代前半の刑罰は、罪を犯したものの多くが「死刑」か「追放刑」に処されました。それが意味するのは、「共同体にとって不都合な存在、危険な存在を排除する」ということです。

「死刑」というのは、命を絶つことであり、その瞬間に共同体から排除されます。対する「追放刑」は、当時の“江戸払い”“江戸十里四方追放”などに代表される刑罰です。たとえば江戸十里四方追放なら、江戸の日本橋から半径五里(約20km)の範囲を立入禁止区域として、その外に放逐する刑罰です。

 ポイントとなるのは、江戸払いや江戸十里四方追放のような追放刑は、原則として生涯刑だったことです。つまり、追放刑を受けると立入禁止区域に一生入ることができません。加えて、追放刑に処された者は戸籍から外されてしまいました。

 ですから、江戸時代前半の刑罰は、罪を犯した者の命を絶ったり、生涯その立入禁止区域に足を踏み入れられないようにして、共同体から排除してしまうのです。そういった考え方でした。