江戸時代の8代将軍、徳川吉宗によってつくられた「公事方御定書」。編纂開始からおよそ10年の歳月を費やして成立したこの法典は、若い頃より無類の法律好きだった吉宗が、中国の「明律」(みんりつ)をはじめとする律令法を研究し、それを日本の社会に適するようにアレンジして作った、当時としては画期的なものだったという。
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「『公事方御定書』において重要なのは、それまでの考え方から大きく転換して『更生』を目指す刑罰を定めていることです。当時はまだ希薄だった、『犯罪者がもう一度社会に戻れるように配慮した刑罰』が採用されているのです」
そう解説するのは、法律の歴史を研究する國學院大學法学部の高塩博(たかしお・ひろし)教授。吉宗がこの法典に「更生」の要素を入れたことについて、「明律との関係性」を紐解きながら解説してもらった。ここでは、吉宗がなぜ更生にこだわったのか、詳しく聞いていきたい。
中国法に示唆を得ながら考え出した「懲して善に進む」の概念
――「公事方御定書」は、それまでの刑罰に加えて、犯罪者の社会復帰を意味する「更生」にこだわった刑罰を取り入れたと伺いました。どういうことでしょうか。
高塩 博 氏(以下、敬称略) 「公事方御定書」ができる前、江戸時代前半の刑罰は、罪を犯したものの多くが「死刑」か「追放刑」に処されました。それが意味するのは、「共同体にとって不都合な存在、危険な存在を排除する」ということです。
「死刑」というのは、命を絶つことであり、その瞬間に共同体から排除されます。対する「追放刑」は、当時の“江戸払い”“江戸十里四方追放”などに代表される刑罰です。たとえば江戸十里四方追放なら、江戸の日本橋から半径五里(約20km)の範囲を立入禁止区域として、その外に放逐する刑罰です。
ポイントとなるのは、江戸払いや江戸十里四方追放のような追放刑は、原則として生涯刑だったことです。つまり、追放刑を受けると立入禁止区域に一生入ることができません。加えて、追放刑に処された者は戸籍から外されてしまいました。
ですから、江戸時代前半の刑罰は、罪を犯した者の命を絶ったり、生涯その立入禁止区域に足を踏み入れられないようにして、共同体から排除してしまうのです。そういった考え方でした。