「犯罪を再生産」する現実。庶民に寄り添った吉宗

徳川吉宗(とくがわ・よしむね):1684〜1751年。江戸幕府の第8代将軍。和歌山藩徳川家の第2代藩主光貞の四男。1705〜1716年まで和歌山藩の藩主を務めた後、1716〜1745年まで江戸幕府の将軍となる。享保の改革を推し進め、財政を復興。また、新田開発の推進や目安箱の設置といった政策も行った。

――しかしなぜ、吉宗はそこまで「更生」にこだわったのでしょうか。

高塩 幕府としては、江戸払いのような追放刑を実施する方が、本当は楽なはずです。手間としては、常盤橋門の外(今の日本銀行の裏側)まで連れて行って「ここから出ていきなさい」と、立入禁止の地域を記した書面を罪人に渡すくらいです。ですから、刑を執行するのにほとんど費用はかかりません。それでいて、罪人がその地域から立ち去ったなら、表面的にはその地域も安全になります。

 しかしながら、こういった追放刑は「犯罪を再生産している」という矛盾があったのです。なぜなら、追放刑を受けた罪人は戸籍から外されて、「無宿」となってしまいます。江戸時代であっても、まともな仕事をするためには、現在と同じように保証人が必要でした。戸籍のない無宿はそこをクリアできず、真っ当な仕事に就けません。

 その結果、日々の食べ物や冬の寒さに困り、結局は盗みなどの犯罪に走るという矛盾が生じる訳です。そうして、追放先の治安も悪化するという弊害も生じることになります。つまり「追放」という刑罰は、犯罪人をA区域からB区域に移動させているに過ぎないのです。

――それだと、本当の意味で社会が良くなっていきませんね。

高塩 さらにいえば、追放という刑罰は「懲戒」、つまり犯罪者を「懲らしめる」という意味合いが薄かったんですね。「ここから出ていきなさい」と言われるだけですから、役人に見つからないように江戸にとどまったり、立ち戻った追放刑者もいました。江戸の外に立ち退けば生活ができないからです。

 でも、もしそれが見つかれば、次はより重い刑罰になり、最悪は死刑になります。追放刑は、こういった不具合に満ちていたんですね。

 江戸払いのような追放刑は、為政者にとって簡便な刑罰ですが、吉宗は違う形を追い求めました。それは、彼が庶民のことを考えていたからだといえます。前回、彼が乳牛を飼って酪農を始めたり、飢饉に備えるために、さつまいもを関東で作れるように研究させたりしたエピソードを紹介しましたが、それらと同じことですよね。

 吉宗は、税金を厳しく取り立てるといった面もあったようですが(笑)、しかし更生に力を入れたのは、彼が庶民のことを真剣に考えていたからこそだったのではないでしょうか。