江戸幕府の8代将軍、徳川吉宗が成立させた「公事方御定書」。この法典では、それまで希薄だった犯罪者の「更生」という概念が取り入れられた。1742(寛保2)年のことだ。
前回の記事:「『百敲(ひゃくたたき)』の刑、吉宗は計算ずくだった」
それから50年近く経った1790(寛政2)年、ある政策により「更生」の概念をより進化させた人がいた。老中の松平定信である。
「彼の時代に作られた『人足寄場』(にんそくよせば)は、戸籍から外された“無宿”(むしゅく)を社会復帰させるための施設でした。そしてこれが、日本の刑務所の源流となっていることはあまり知られていません」
そう説明するのは、法律の歴史を研究する國學院大學法学部の高塩博(たかしお・ひろし)教授。人足寄場とは一体どんな施設であり、どのように更生を図ったのか。そして「今の刑務所の源流」が意味するところとは。高塩氏に話を聞いた。
「天明の飢饉」で起きた、治安の悪化がきっかけに
――1790年にできた人足寄場は、無宿や罪人を受け入れる施設だったと聞きます。まず“無宿”とは、どのような人のことでしょうか?
高塩 博 氏(以下、敬称略) 無宿とは、戸籍から外された人のことです。江戸時代には無宿が多く存在しました。罪を犯した人はその代表でした。また親に勘当された人、他には故郷を離れた人、今でいえば失踪した状態の人も、親族が戸籍を外すことによって無宿となることが珍しくありませんでした。なぜなら、江戸時代は子どもの借金や犯罪に対して、親族が連帯責任を取らされる場合があったからです。
このような無宿にとっての大きな問題は、まともな仕事に就けないことです。その結果、盗みなどの犯罪を犯すケースが多々ありました。