今回は、特にノーベル賞に関しては受賞者に相応しくない、との烙印を自ら決定づけるような作文になっていました。

 ここで村上氏は、海外向け、国際社会向けには

 『一般的なことをいえば、僕は死刑制度そのものに反対する立場をとっている』

 とし、英語やスウェーデン語で国際社会の歓心を買いそうなヒューマニズムの
ポーズを取る際には、トレンドどおり「死刑制度そのものに反対」と宣伝してみせ、返す刃で、こちらは必ず日本語だけですが、死刑存置の世論が高い国内読者向けには、

 『「私は死刑制度には反対です」とは、少なくともこの件に関しては、簡単には公言できないでいる』

 と、時と場所によって見解を使い分けていることを自ら露骨に記してしまいました。これは、流行作家としては当然の配慮で、日本国内の顧客を念頭においたマーケティング的には全く納得のいく話です。

 同時に、国際世論、とりわけノーベル賞に関わるような水準の議論では、最も軽蔑される両面宿儺の状態にほかなりません。

 8月、欧州で、日本語だけで公刊されたこの作文をドイツやオランダ、フランスの、関連の問題解決に長年尽力してきた友人たちに示して意見を求めてみました。

 「すべてのケースでなんだこれは?」

 と呆れられて、「相手にする水準ではない、国内向けの大衆作家の自己PRだろう」で終わりとなりました。

 ノーベル賞がどうこう、という水準の議論ではないのです。