B-29以前の爆撃機では、キャリースルー構造をよけた爆弾庫を設置するため、機体は大きくても積める爆弾のサイズは限定された。

 B-29は太い胴体を持つだけでなく、十分な胴体長があり、主翼の前後に爆弾庫を配置することで、原爆サイズの爆弾を積むことができた。

 爆弾庫のサイズが必要なだけでなく、敵の領土の中心部まで5トンの重量物を運ぶため、数千キロ飛行する必要もある。当時、そのような能力を持った航空機は世界でB-29だけであった。

 原爆は自分で動くことができない。敵のいる場所まで運ばなければ、原爆は兵器として全く意味がない。初期の核兵器は、敵の上に原爆を持っていくことができるB-29とセットで初めて機能したのだった。

 B-29は単に大きい爆撃機というだけではなく、初期の核戦力の必要不可欠な要素であるという意味を持っていた。

 ソ連は米国に対抗するため、必死に原爆の開発をしていた。しかし、米国と冷戦をするためには原爆だけでは不十分で、B-29も絶対に必要であった。

B-29を米国からもらえなかったソ連

 戦時中、米国とソ連は同盟国であった。米国はソ連に対し、武器や物資を援助していた。戦闘機、爆撃機、軍用自動車、食料品等々、様々なものがソ連に援助された。

 米国の工業力は大日本帝国を圧倒していたが、米国以外の連合国も圧倒していた。米国からの軍需物資はソ連を含めた連合軍の勝利に大いに貢献したと言える。

 ロシアの博物館では、その時に援助されものが展示されていることがある。例えば、航空機の博物館であれば、米国が援助したB-25小型爆撃機が展示してあるのが見られる。

 また、町の郷土博物館には、米国から援助された缶詰が展示されていたりする(なお、この缶詰のロシア語は間違えていたというオチがあった)。

 こうした展示を見ると、米国からの物的支援の多様さと規模の大きさが感じられる。しかし、ここまで多種多様な兵器や物資が提供さても、B-29は提供されなかった。

 ソ連はB-29の提供を米国に2回リクエストしていたようだ。米国はB-29をソ連に送ることを断った。