こうしてまず、「面白いものを、ただ面白く読む」ことこそが大事なのだと、出口さんは繰り返し語る。たぶん今の子供達が受けている授業も相変わらずだと思うのだが、本を読んで、なにかしら「ためになったこと」を書かされる「感想文教育」は、本を、特に小説を遠ざける一因なのではないかなどとひとりごちる。

 そしてなぜ「古典」なのか。それは時代を超えて多くの人々が「ただ面白い」と読み継いできたものだから。その面白さは本来「折り紙つき」なのだ。文明は変わっても、人間は所詮、そんなに変わらない。怒ったり笑ったり、悩んだり。普遍的な人間の感情に触れることは時代を超えて面白いことなのだ。だから、安心して読んでいいのだという。

 ときに「古典」が読みづらいと思うなら、それはほんのちょっと知識が足りないから。その作品が書かれた時代の背景や知識が少し不足しているからで、それを知ったらあとは「人間」が物語のなかで縦横無尽に駆け回るというわけだ。

 日本では明治維新以降、主に欧米の文明を吸収しようと考えたので、古典の翻訳もそちらが中心となったが、人口でははるかに多いアジアやイスラム圏に、まだまだ日本人が知らない面白い古典がたくさん存在するという。西遊記は日本や中国はもちろん、世界中で親しまれ、どこへ行っても話題にできるくらいのアジアのスーパー古典物語なのだ。

そもそもなぜ主人公は猿なのか

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 授業では、作品の元となった、玄奘三蔵という高僧が17年に及ぶ旅をした唐の時代から、約400年後に荒唐無稽な物語『西遊記』になるまでの中国の歴史や社会背景をわかりやすく紐解いていく。農業の生産力が上がり、コークスなどの強い火力を手に入れ、夜の街には灯りがともり、政治が安定した時代に、庶民の娯楽として発展した「講談」として、西遊記は発展していく。物語はどんどん面白く、大げさに、スケールも大きくなっていくのだ。もっと面白く!もっと刺激的に! 講談師の語りと、観客のリアクションが共犯関係となって物語を膨らませ、やがてそれがノベライズされて後世へ伝わっていく。西遊記ひとつにも、多くの人々の息遣いが吹き込まれて成立していたのだなあと、ワクワクしてくる。

 西遊記では三蔵とともに孫悟空や猪八戒・沙悟浄が仏教の経典を求めて天竺へ向かうが、中国の王朝の中で、仏教を重んじるのはどんな王朝の時なのか。次々に登場する妖怪とポケモンの共通点。あるいは孫悟空が石から生まれるのはなぜなのか。そもそもなぜ主人公は猿なのか。なぜお供は3人なのかなどなど、意外な観点が次々に飛び出してきて、目から鱗である。まさに「知識が物語を面白くする」のを実感出来る授業が展開する。中学生たちのグループディスカッションから飛び出してくる彼らの感性もとても素直で新鮮だ。