2月3日、イラン、イラク、リビア、ソマリア、スーダン、シリア、イエメンの7か国国民の入国を90日間禁止する、などとした「外国人テロリストの米国入国からの国家の保護」と題する大統領令に対し、ワシントン州連邦地裁が一時差し止めを命じた。
その即時効力停止を求めるドナルド・トランプ政権の申し立ては連邦控訴裁が退けたものの、双方に意見書などの提出を求めており、米国の「国境」をめぐる混乱が続いている。
1763年、最後の植民地戦争「フレンチ・インディアン戦争」が終わったとき、英国領「13植民地」の西の果てはアパラチア山脈だった。
「ポンティアック戦争」(ポンティアックとはオタワ族の有力酋長の名前)が続いていたこともあり、先住民との対立の激化を恐れた英国が、フランスから得たミシシッピ川東岸まで広がる「Indian Reserve」とも呼ばれる地への植民者の移住を禁じていたのだ。
とはいえ、英国王ジョージ3世がそんな宣言をしたところで、新大陸の人々の土地への欲望を止めることなどできなかった。
そして、1768年、先住民「イロコイ連邦」とスタンウィックス砦条約を結ぶと、オハイオ川の南、ケンタッキーやウェストバージニアへと、白人が向かうようになるのである。
アパラチア山脈を越えた「米国人」
しかし、その地で狩猟を続けてきたショーニー族などが激怒、白人との衝突が続くと、バージニア総督ダンモア伯が宣戦布告、その「ダンモアの戦争」にショーニー族などは破れ、「国境」の受け入れを強いられることになる。
『大陸の快男児』(1936)には、「多くの人が山向こうの未開の地に新天地を求め向かう記念すべき日」との牧師の祝福の声に続き、西へと向かう開拓団の姿がある。30人余りの一団を率いているのは、フロンティアのヒーロー、ダニエル・ブーン。
先住民の襲撃を受けながらも、バージニアからケンタッキーへと続く白人入植路「Wilderness Road」を切り開き、先住民の言葉で「暗く血なまぐさい土地」を意味するケンタッキーに入植地を築いた実在の人物である。
敵役となっているのは、先住民を率いる白人サイモン・ガーティ。このブーンの開拓行でガーティと遭遇したという記録は(私の知る限り)ないので、恐らく創作だろう。
同様に、多くのフィクションで残忍な憎まれ役として描かれてきたガーティは、先住民の中で暮らした経験もあることから、英軍に通訳などとして重用されていた人物。独立戦争中、アパラチア山脈を越えた「西部戦線」で、ケンタッキーなどの開拓者たちは、英軍、そしてその同盟者たる先住民と激しく対立していたのである。
1783年、独立戦争は終わり、米国は、その独立と北西部の領有を認められた。
しかし、英国は負けても、その地で長年暮らす先住民に「敗戦」の認識はなかった。ましてや、「すべてを共有する」その文化では、土地は所有するものではなかったのである。米国が独立戦争での負債を西部の土地を売却して補おうとしたことも事態を複雑にした。
アパラチア山脈を越え、多くの開拓者が西へと向かった。そして、「北西インディアン戦争」が始まった。
大統領となったジョージ・ワシントンは「討伐」軍を派遣した。1795年、条約が結ばれ、オハイオの多くとインディアナの一部が、「正式に」白人のものとなった。すでに1792年、ケンタッキーが州となっており、96年にはテネシー、1803年にはオハイオも州に昇格した。
先住民を無視した「土地譲渡」は続いた。