アジアの将来を望見するのに、ホワイトは民主主義だの人権だのといった価値観をすっかり捨象してかかる。確実なことは力関係の推移であるとする、いわゆるリアリズムがホワイトの立場であるようだ。
彼の見るところ、確かに予見できることの第一は、米国による単独覇権の衰微と退潮である。誰も米国に挑戦する者がなく、それゆえに維持されたアジア太平洋の安定は、この先二度と再び現れない。
すると第2に、アジアの将来は米国が中国との対決色を深めるか、諦めて退いてしまうかを両極とする範囲のどこかに収束する。前者は米中軍事対決の昂進をもたらし悪夢だが、後者は中国による一極支配を意味し、招来するゆえ、同様に受け入れ難い。
結局米中に加え日印の主要大国がいわば毎日卓を共にし、どの1人にも独占を許さず、抜け駆け・八百長を図る者が1人でもあれば残りの3人が連携して阻止する類――列強による均衡体制として19世紀欧州に現れた「concert of powers」の仕組みを、アジアにおいて再現していくことが最も望ましい。
ホワイトはそう主張する。アジアの将来は「コンサート・オブ・パワー」にありとする所説は、このところ随所に現れつつある。
米国一極支配が崩れ、かといって欧州型の多国的安全保障の制度がアジアにできる現実性がまるでない以上、残るはこれだというわけで、ホワイトは代表的論客の1人だ。
日本は米中の不和に利益を見出す問題児
この見方に立つ場合、日本は当然ながら問題児同然の扱いになる。
ホワイトが言うところ日本とは中国の台頭に最も強くリスクの高まりを感じる国であり、そのこと自体は理解と同情に値する。
だとしても日本が結果として米中の不和に利益を見出し、和解を邪魔したいとするインセンティブを持つ国であることが、秩序の混乱を招くというのである。
米中に対立の因子を育てたがる国は「コンサート」を奏でられないというわけだろうか。さしずめ尖閣事件後一連の推移は、望ましからざる日本の役割をよく例証するものだったとホワイトは見ていたとして不思議はない。

