本流トヨタ方式の土台にある哲学」について、「(その1)人間性尊重」「(その2)諸行無常」「(その3)共存共栄」「(その4)現地現物」という4項目に分けて説明しています。

 前回は、地域、環境などとの共存共栄についての話の一環として、1970年代末にトヨタ自動車が田原町に工場を建てた時の状況を話しました。今回はその続編です。トヨタが豊田地区という殻を破って田原に進出したことで、海外に出るための貴重な経験を積めたことを中心にお話しします。

貿易摩擦のおかげで双子工場が一人っ子工場に

 79年、田原工場の稼働とほぼ時を同じくして第2次オイルショックが起こり、自動車産業に激震が走りました。米国では燃費のよい日本車がさらに売れるようになりました。日米自動車摩擦がいよいよ本格的になってきました。

 79年当時のトヨタは、国内の生産台数が約300万台弱。その中で対米輸出台数は61万台と、20%を超えていました。その一方で、米国では79年にクライスラーが赤字となり、政府から融資保証を受けました。80年にはフォード・モーターも赤字、ゼネラル・モーターズ(GM)も創業以来初めての赤字を出すなど、ビッグ3が揃って赤字になりました。

 日米の自動車産業を巡る動きは一気に慌ただしくなり、米国からは、対米輸出台数の自主規制と、米国での工場建設を求められるようになりました。

 これを受けてホンダはオハイオ州での乗用車工場建設を発表、次いで日産自動車がテネシー州でトラック工場を建設することを発表しました。田原工場の建設は、このような背景の下に進められていたのでした。

 ホンダや日産が対米進出の意思表示をしたのに、トヨタは黙々と「対米輸出車専門工場」として田原工場を立ち上げ、さらに次々と増強していてけしからん、という声も聞こえるようになってきました。

 この状況を見てトヨタのトップは、田原工場の第2期立ち上げで造る双子工場の内、「2C工場」のみ立ち上げて、「2D工場」の稼働は延期することを決断したのでした(前回お話ししましたように、トヨタは田原工場の第2期立ち上げに当たり、月産1万台規模の工場を2つ造る戦略を立てました。その双子工場が通称「2C工場」「2D工場」です)。

 その日以降、2C工場はそれまでの「対米輸出車専門工場」という通称を一切やめ、「高級スポーツカー専門工場」という名称に変わりました。

 田原工場は国内専門の超高級スポーツカー「ソアラ」のための工場、という面を前面に押し出し、同時に生産する輸出比率の高い「スープラ」や「セリカ」は、あえて目立たないようにしたのです。

トップは対米輸出自主規制の動きを読んでいた?

 81年5月、日本政府は米国への完成車輸出の自主規制を決定しました。「乗用車の対米輸出を81年度は168万台とする。規制期間は3年とする」というモノでした。

 その台数の各社への割り付けは1980年度の輸出実績の下に決められ、トヨタの枠は60万台でした。その後も日本政府の規制が続き、84年が185万台、85~90年は230万台と10年間続きます。

 実際はメーカーにとっては、規制によって車が品薄となって、高値取引ができる旨味がありました。また、米国での生産が増えてきて、230万台に届かない年が多かったといいます。トヨタは自主規制により輸出台数が増えず、2D工場はなくても生産台数は十分間に合ったのでした。