(1)中国人の「インドネシア」移住は、15世紀初頭の有名な明の武将でイスラム教徒でもあった「鄭和」の大航海に遡る(第1波移民)。
(2)続いて17世紀のオランダ植民地時代、19世紀のアヘン戦争以降、主として中国南部からの移民が現在の「インドネシア」で急増した(第2波、第3波移民)。
(3)特にオランダ統治時代、スマトラやジャワでは貿易が拡大し、プランテーションでの労働力も不足していたため、通商や雇用を求める多くの中国人が殺到した。
(4)中国人は少数派ながら勤勉で能力も高かったため、オランダ人は現地人を統治し植民地を経営するうえで、中国系を重用(利用)した。
(5)華人社会はその後も拡大していくが、オランダ植民地経営の協力者と見られたこともあり、現地イスラム社会との緊張・摩擦は政治、経済、文化各方面で長く続いた。
(6)1965年の独立以降も華人社会を標的とする暴動が続き、特にスハルト大統領は「華人同化政策」を進め、中国系に対する差別措置を1998年の退陣まで続けた。
マレーシアの「バナナ人」たち
インドネシアと同様、マレーシアへの第1波中国移民も15世紀に始まったようだ。当時明朝の公主(プリンセス)寒冷宝なる女性がマラッカのスルタンと結婚し、多くの中国人が福建省から現在のマレーシアに渡ったとされるのだが、真偽は疑わしい。
その後、19世紀にマラヤを植民地統治していた英国が中国移民を奨励したため、福建、広東、海南各省を中心に多くの中国人「クーリー」たちがゴムプランテーションや金・錫鉱山などで働くようになった(第2波移民)。
こうした第2波新移民たちは英語がうまく話せず、イスラム社会にも馴染めない。これに対し、流暢に英語を操る古い中国系移民たちは英国の植民地当局などで働いていたため、新旧移民間では争いが絶えなかったという。
当時の新移民は英国当局に擦り寄る旧移民たちを、表面は黄色だが中身は白い「バナナ人(香蕉人)」と揶揄していたらしい。また、イスラム法により現地人との結婚が難しかったこともあり、タイで見られたような現地社会への同化は進まなかった。