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 ロシアと清の関係は、1700年代から1800年代の前半までは平穏無事だったから今回は暫時一服。しかし、そんな平和をよそに、ヨーロッパの経済や政治思想は大きく変貌していく。そして、それは今に続く世界の「先進国」と「後進国」の差別意識の誕生でもあった。

中国観が好意から侮蔑へと一転

 長らくアジアから見れば僻地で後進地域だったヨーロッパに、軍事・科学・産業での革命が起こった。この過程でヨーロッパ内の(ではなく、ヨーロッパに偶々隣接した、と言う人もいるかもしれない)後発組・ロシアは落ちこぼれになりかけ、かたや中国と見れば、それ以前の好意的だったヨーロッパの観方が侮蔑に一転していく。

 ヨーロッパが変わる前の1600年代には、宣教師を主な執筆者とするまともで、好意的とも受け取れる中国の政治体制の解説やその歴史書が、フランスなどで世に出ていた。

 宣教師は今で言えば海外駐在員、ならばその赴任地がいかに素晴らしく見込みのある地域かを本山(ほんざん)=本社に喧伝するのが人情というもの。

 まあ、そうした面も否定はできまいが、概して彼らの書いたものは真面目で公平な分析だったようだ。その真面目さが少々行き過ぎたか、歴史家たちが余計なことまでしでかしてくれる。

 中国を研究すればするほどその起源が昔に遡って、それが紀元前3000年にまで達した。そうなると、当時の聖書史観の解釈に従ったノアの洪水よりも昔になってしまう。

 ノア一族以外が全部洪水で一度は滅んだはずが、実は中国人だけは別だった、ではどうにも恰好がつかない。ヨーロッパは慌てて洪水の起こった時期を紀元前3000年よりも昔へと修正する羽目に陥った(G・ヘーゲルによれば、紀元前2400年から紀元前3473年へ)。

 ついでながら、これは旧教・新教の話であって、それより500年も昔の1100年代に正教に従って書かれたロシアの『原初年代記』(ロシア版「古事記」)では、洪水をすでにキリスト生誕前3212年としている。正教は辛うじてセーフだった。

 しかし、1700年代初めに清で典礼問題(キリスト教の立場として、儒教の孔子や祖先の祭祀を認めるか否か)が発生すると、清=中国を見る客観的な視線が後退して、ヨーロッパからの風当たりが変わり始める。

 清の外国人への要求は、中国内で活動するなら中国の流儀と宗教に従え、である。今なら国家主権の陰でそれほど過激な話にも聞こえないが、不幸にして宗教が絡んだものだから話が拗れてしまう。

 宣教師は反発するし、その雰囲気の中で清に赴く旅行者たちも、清の否定的な側面をさまざまな表現で広めだしていく。