最も尊敬する経営者の一人である外山(とやま)新一さんからハガキが来た。年齢を考えて、ついにすべての公職から離れ、庭の畑いじりに専心する決心をしたとのことだ。
〒992ー0042 米沢市塩井町塩野1737ー1
地域の中小企業活性化に大きく貢献してこられただけに、「残念だ!」という気持ちと、「ありがとうございます。お疲れ様でした」と賞状を差し上げて休んでいただきたい気持ちがごちゃ混ぜで、いわく言い難い。
外山さんの会社はミユキ精機(山形県米沢市)という。社名は1960年に昭和天皇がこの工場へ行幸されたことにちなんでいる。正門横に当時の記念樹「御幸の松」が残っており、両陛下がお座りになった椅子なども保存・展示されている。
急激な円高で仕事が半減
ミユキ精機は元々は中堅T電機の分工場だった。外山さんはT電機の社員だったが、分工場(現ミユキ精機)が設立された時、現場のまとめ役として移籍した。その後ミユキ精機として独立した後も一貫して現場を指揮してきたが、1987年に7代目の社長に抜擢された。
「抜擢された」というと響きがよいが、「会社ごと放り出された」に近かったかもしれない。実はこの時がミユキ精機創設以来最大の危機であった。
第1次円高で為替レートがそれまでの1ドル=240円から突然1ドル=120円という状況になり、輸出価格が倍になった。「これでは輸出は無理だ。絶望的状況だ」。日本中が大不況に陥り、ミユキでも仕事のキャンセルが相次ぎ、仕事は半減。新規受注は無い。
「これでは倒産してしまう!」。思い悩んでいた時にテレビで「円高不況を乗り越える企業」という番組があり、S社の取り組みが紹介された。その製造技術の高さに感心した外山さんは、「この会社の製品が作れるようになれば、円高でも生き残れるかもしれない」と思い、見ず知らずのS社から仕事を貰おうと蛮勇を振るって工場を訪問した。
しかし紹介者もいない。「ミユキ精機なんて会社、聞いたこともない」。当然のことながらケンもホロロに断られた。しかしそこからが外山さんの粘りだ。「ここの仕事が取れなければ倒産だ!」と、あきらめずに何度も何度も訪問し、しつこく食い下がった。執念岩をも穿つ。訪問十何度目かで熱意が通じたか、S社の担当者も根負けして、ミユキの工場を視察するというところまで漕ぎ着けた。
発注内示に銀行も一緒に喜んでくれた
しかし視察後のS社による評価は散々なものだった。多少自信があっただけに大きな衝撃だったと外山さんは回想する。
「でも私たちの真剣な姿勢だけは伝わったんだと思います。ほとんどあきらめていたら、“今後2カ月の間に生産技術を抜本的に改善すること” を条件に発注内示を受けました。それが12月24日。クリスマスイブの日です。本当にうれしかった。あの時はその日の資金にも困っていたんです」
次の日、喜び勇んで銀行へ行った。「S社から、発注内示をもらった。ぜひ年末資金を貸してください」。銀行の人もいい人で、一緒になって喜んでくれた。内示のファクス1枚だけで融資をしてくれた。「それで従業員にボーナスが出せたんです。本当に助かりました」
しかしそれからが大変だった。翌年1月から2カ月間、休日も幹部総出で勉強会をやって、3月になりテストを受けたのだが、評価は再度メチャクチャだった。緊張のあまりのミスが連発した。S社のスタッフが「もうダメだ!」と帰りかけたのを、外山さんは「もう1回死にもの狂いでやるから、見捨てないでくれ」と必死に頼みこんだ。