1993年10月、来日した当時のロシア大統領エリツィンが「日ロの問題はスターリン主義の残滓」と述べたことを前回紹介した。この発言は、北方領土がソ連によって奪われることになった核心を突いたものであった。

 いま北方領土と言う場合、国後島、択捉島、歯舞諸島、色丹島のことを指している。「北方四島」と言われるものだが、本来の日本の領土はこの4島だけではない。カムチャツカ半島の南にある阿頼度島(あらいどとう)から根室海峡の北に位置する国後島までの千島列島全体が日本の領土である。歯舞諸島や色丹島はもともと北海道の一部であり、これまた本来日本の領土であることは言うまでもない。

 問題は、国後、択捉の2島や得撫島(うるっぷとう)以北の北千島が日本の領土になった経緯である。

日本の歴史的領土は千島列島全体である

 もともと千島列島にはアイヌの人々が住み、暮らしていた。1700年代後半には、日本もロシアもこのアイヌの人々と交易関係を結んでおり、その時々に日ロ双方の影響力が強まったり、弱まったりしていた。いずれにしろ日ロ双方とも支配を確立しているという状況にはなかった。ただ、双方が影響力を強めようとするわけなので、当然、争いは絶えなかった。これは樺太でも同様であった。

 こうしたなか1853年8月、国境の画定と開国・通商を要請する国書を携えたプチャーチン・ロシア艦隊司令長官が長崎に来航し、江戸幕府とロシアとの条約締結交渉が開始された。その後、数次にわたる交渉を経て1855年2月7日に調印されたのが「日ロ通好条約」である。

得撫島

 この条約では、日ロ間の国境を択捉島と得撫島の間とし、択捉から南は日本領、得撫から北はロシア領ということが確認された。また決着がつかなかった樺太は混住の地とされた。

 しかし、当然のことながら明治に入っても樺太での日ロ間の紛争は頻発していた。そこで1875年5月7日に日ロ間で結ばれたのが「千島・樺太交換条約」である。これによって樺太はロシア領、得撫以北の北千島は日本領ということが確定した。これで最終的に日ロ間の国境が画定したわけである。

 しかも重要なことは、この国境の画定が、戦争によってではなく平和的な話し合いによってなされたことであった。本来、日本の歴史的領土というのであれば、それは北千島を含む千島列島全体なのである。

 ちなみに、いま日本の政党で歯舞、色丹と全千島の返還をロシアに求めているのは、日本共産党だけである。