トルコの勢いが止まらない。ロシアではウラジーミル・プーチン氏が再び政権に就いても「石油頼み」は変わらないとされるが、隣国であり経済的に結びつきも強いトルコでも、レジェプ・タイップ・エルドアン首相率いる公正発展党(AKP)がやはり長期政権を維持しながら、安定した国家運営を見せている。
盤石な政治基盤を固めつつあるトルコのエルドアン首相
周辺諸国の危機が相次ぎ、国内でも独裁化の傾向が時に指摘されながらも、単に経済的な規模の拡大だけではなく、安全保障や外交でもその存在感を急速に増している。
自信を得たトルコは、半ば西欧に押しつけられてきた(?)「神話」の見直しにも着手したようだ。
「オスマン帝国はEUより300年前に『単一市場、単一通貨、単一法典』を実現していたのだ」
これは、一昨年出版された『第2オスマン帝国』(Baki Tezcan, The Second Ottoman Empire, Cambridge University Press, 2010)という作品の一節である。
この『第2オスマン帝国』というタイトルから、歴史好きの読者はローマ帝国史やドイツ帝国史などを想起するかもしれない。
あるいはユーラシアのトルコ系(チュルク系)諸国、すなわち中央アジアの国々とトルコ共和国を結ぶ新たな汎チュルク圏連帯とか、旧オスマン領のバルカン・北アフリカ・アラブ諸国との連携を強めるいわゆるネオ・オスマン主義外交を思い浮かべる読者もいるだろう。
しかし、実際には本書は上記のいずれにも当たらない純然たる歴史書かつ学術書である。従来は停滞ないし衰退・混乱の時代とされてきた17世紀のオスマン社会を、当時の西欧社会の変革も念頭に置きながら、新たな帝国秩序樹立の変革期として捉え直している。
英国では正当化され、オスマン史では否定され・・・
本書冒頭で筆者は次のような象徴的な問いを投げかけている。英国においてチャールズ1世を処刑した1649年のピューリタン革命やジェームス2世を退位に追い込んだ1688年の名誉革命は肯定的に評価される。
しかし、ちょうど1年ずれたオスマン朝における皇帝殺害や廃位(1648年、1687年)は、帝国衰退と混乱の象徴とされてきた。
ところが、ある種の「民意」を背景として王権を制限したという意味において、英国の革命とオスマン朝のクーデターはともに「民主的な」出来事である。