「脱・原発」への長い道程を考え、語るために一時中断していた「日本のクルマ産業が、ものづくりから『元気』を取り戻す道筋」を再開しようと思う。まずトヨタ自動車、そして日産自動車、EV傾倒のつながりから三菱自動車工業までは現状分析と私見を紹介した。続いて今回は「ホンダ」の今を見直し、考えてみたい。

 ホンダには、ものづくり企業として独特の個性を持つ、というイメージが浸透している。それはもちろん、創業者たる本田宗一郎氏の人となりが生み出したものだ。

 ものづくりに取り組む強い意志、常識に縛られる発想を否とする思想、その全てが製品を使ってくれる人々への思いに結びつく。さらに、社員に目を配るこまやかな思いやりに至るまで、「オヤジ」の存在はいかにも大きかったのである。

ホンダからいなくなった「オヤジ」の原体験を持つ人々

2輪車の常識を変えた4気筒の「CB750」が登場する前、ホンダで最も速いバイクはこの「CB450」だった。そのエンジンの設計者は久米是志氏。少し後に設計したN360のエンジンはCB450のものと共通部分が多く、実際に一部の部品を流用することも可能だった。ほぼ平行して久米さんは当時のF2やF1のエンジンも描いていたのである。(photo:ホンダ、以下すべて)

 私の世代では残念ながら本田氏は現場から引退されていて、様々な場でにこやかに、しかしエネルギーを発散しながら語る姿に接しただけだ。しかし、その薫陶を直接受け、いつも敬愛と畏怖の念を持って接していた「子分」の方々からは、私自身が様々なことを教えられ、鍛えられ、共感を味わってきた。

 特に3代目社長の久米是志さん、その後を引き継いだ川本信彦さんはともにエンジン設計者であり、2輪から4輪へ、それも市販車だけでなくレースの分野までを同時進行で手がけるという、今ではもうあり得ない時代を過ごしてこられた。その当時の話をうかがうだけでも十分に刺激的だった。川本さんは第2期F1プロジェクトの出発点となった当時のF2用2リットルV型6気筒エンジンを自ら図面を描いて作り上げたこともあり、当時はずいぶんお話を聞きに行ったものである。

 その次、つまり5代目の吉野浩行さんまでは親しくお話しさせていただく機会が何度もあったけれど、この面々との言葉のキャッチボールは、内容が面白く示唆に富んでいるのは当然として、鋭利な頭脳の動きが直接伝わってきて、緊張感が途切れない時間だった。「これがもし部下だったら、きっと大変だろうな」といつも思ったものである。

ホンダが本格的に4輪の実用乗用車の世界に進出した第1作、N360(1967年登場)。当時としては斬新な「2BOX」フォルム、エンジン(下部にトランスミッションを一体化した2輪車的構造)を前に横置きした前輪駆動レイアウトだった。

 その時代の技術者、そして商品企画、生産、さらには宣伝など、自動車産業に関わるありとあらゆる分野の「ホンダマン」の中には、取材者という立場を超えてお付き合いし、共に面白がり、考え、学ばせていただいた方々も多い。

 クルマを形づくる技術面だけでなく、例えばアメリカ現地生産の立ち上げにあたって、「ホンダイズム」をいかに浸透させるか。思い思いの私服で働くのが常識だったアメリカで、ホンダ流の白のつなぎの作業服と帽子を着用してもらうだけでも、「油などの汚れがすぐに分かるから白」「製品に細かな傷を付けないためにボタンやファスナーを覆った作業衣」と、これも本田宗一郎発案の「ものづくり」の流儀を全ての作業者に語り聞かせるところから始めた。そんなエピソードを聞いたのは1980年代初めのことだったと思う。