20世紀を代表する指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤン氏(1908~1989年)。世界中のファンから愛される一方で、これほどマスコミから攻撃され、毀誉褒貶にさらされた人物も珍しい。渦巻く反感と誤解の中で口を閉ざし、何も語ろうとしなかったのはなぜか。

 また、カラヤン氏ははるか遠い国、日本でのコンサートをいつも心待ちにし、サントリーホールの設立に当たっては惜しみない協力を申し出た。なぜ、カラヤン氏にとって日本は特別な国だったのだろうか。

 ベルリン・フィル来日の際にはカラヤン氏の秘書を務めるなど、カラヤン氏と日本の橋渡し役を務めた眞鍋圭子氏が『素顔のカラヤン』を執筆。巨匠の知られざる素顔を綴った。(聞き手は鶴岡弘之)

──この本にはカラヤンさんの日常のエピソードがいろいろと綴られていて、まさに素顔が見えてきます。例えば、カラヤンさんは本当にスピード狂なんですね。猛スピードで走る車の助手席に乗せられたとか。

眞鍋 あれは怖かった。本当に怖かった(笑)。カラヤンさんが乗っていたのはダークグリーンのワーゲン・ゴルフ。ザルツブルクの家の駐車場にポツンと置いてあるんです。外見はどこにでもある普通の人が乗る車なんですよ。

素顔のカラヤン』(幻冬舎、眞鍋圭子著、800円、税別)

 でも乗り込むとレーサーみたいなシートベルトなんです。ウワーンとアクセル吹かして、畑の中の一本道をすごいスピードで飛ばすんですよ。小さい車でスピード出すと、怖いじゃないですか。とにかく体感スピードがものすごい。乗せられた時は怖かったですね。一言もしゃべれずにこわばっていましたよ。

──その時のカラヤンさんはもう70歳過ぎですよね。

眞鍋 そうですね。ゴルフの前はポルシェに乗ってたんですけどね。でも、ポルシェだと目立つし、ここにカラヤンがいるぞってみんなに分かってしまうじゃないですか。ゴルフならば誰にも気がつかれないということなんでしょう。さすがに晩年は運転手つきのロールスロイスに乗っていましたけど。

──新幹線のビュッフェでスピードを当てるエピソードも面白いですね。

眞鍋 そうそう。来日した時に新幹線に乗っていたら、「僕は走っているスピードを当てられるよ」とおっしゃるんです。ビュッフェにスピードメーターがありますよと言ったら、じゃあ行こう、行こうということになって。

──無邪気、と言っていいんでしょうか(笑)。

眞鍋 無邪気なんですよ(笑)。ぞろぞろと4人ぐらいでビュッフェまで歩いていって。カラヤンさんはメーターを見ずに、ぴたりと新幹線のスピードを当てていたので驚きました。

言い訳や説明を一切しなかった

──晩年にはカラヤンさんとベルリン・フィルとの仲が険悪になり、団員がカラヤンさんを非難する本を出版したり、マスコミが「金の亡者」だと攻撃したりと、カラヤンさんは大変な状況になりました。当時、そばにいてどうでした。

眞鍋 もう大変でした、あの時は。この本にも書きましたけど、ベルリン・フィルとの闘争が始まる1つのきっかけになったのが、83年のザビーネ・マイヤーの事件だったんですよね。

 ベルリン・フィルに1年以上、第一ソロ・クラリネット奏者がいなくて レコーディングの時とか大変だったんです。やはりどうしてもクラリネットの第一奏者がいるということになって、何度もオーディションを行いまして、やっと受かったのがザビーネ・マイヤーでした。