地震、津波、原発事故と3つの国難級クライシスが束になって来た「3.11」より深刻な危機は戦争くらいしかない、と以前書いた。政治家にしろ、官僚にしろ、報道にしろ、これ以上はない「最苛烈条件」(=ミッションクリティカル)での実力が今試されている。ゆえに、現在私たちが見ている日本の報道の実力が、彼らの最高実力である。いくら「次はもっと頑張ります」と言っても、もう「次」はない。

 これまで積もりに積もった報道の問題点が「3.11報道」というテーマで形を伴って毎日の紙面に表れている。その結果に満足しているという読者はむしろ少数だろう。その意味では3.11は報道の問題を例示するのに絶好の機会である。

 後世の記録に留めるため、その問題を今後しばらく書いてみよう。特に、地震と津波の被害が一段落し、福島第一原発が膠着状態に入った5月以降、どの社も「ネタ枯れ」を起こしたのか、問題が如実になってきた。

見事にそっくりな陸前高田の「一本松」記事

 その1つは「人まね記事」「パクリ記事」である。

 ある新聞や通信社、テレビ局が報じたネタを他社がマネし、それを各社が延々と反復し続けることだ。危急の事件や事故、あるいはよほどの特ダネなら各社に同じ記事が出ているのも道理なのだが、のんびりとした「街ダネ」「ヒマネタ」まで各社似た記事が続々と出る。いわゆる「横並び記事」だ。同時に取材に行けば「横並び」なのだが、実はそうでもない。他紙や他局に出ているのを見て、取材に行く。そんなことも多い。穏やかに言えば 「人まね」、ありていに言えば「パクリ」である。

 どの紙面・番組も似たり寄ったりの文や写真、動画が並ぶので、多様性が損なわれる。どの新聞や番組も「画一的」「均質的」になる。内容が似ているので、私は揶揄を込めて「コピペ記事」と呼んでいる。

 私がこうした各社が似たような記事を延々と掲載しているのに気づいたのは、陸前高田市の通称「一本松」だ。津波に耐えて1本だけ生き残った防潮林のマツが、復興のシンボルとして被災者に珍重されている、という美談である。