西本願寺・阿弥陀堂(663highland, CC 表示 2.5, リンクによる)
西本願寺で「東」の僧侶による講話
1月11日、京都の西本願寺で、たった40分でしたが記念碑的な「講話」がありました。
御正忌報恩講特別講演「去此不遠(こしふおん)」、講師:廣陵兼純師(真宗大谷派僧侶)
特段、気づかなければ分からないかと思います。しかし、これは世が世なら大変なことが起きているのです。
講話の場所は西本願寺。でも、登壇する講師は真宗大谷派僧侶、つまり東本願寺。
つまり、かつては覇を競って対立したこともある東西両本願寺の、「お西」こと京都西本願寺大本山の正月「報恩講」に、「お東」こと東本願寺の廣陵兼純師(1937-)が登壇しておられる。
知る人が知り、見る人が見れば、これは大変な事態なのです。ではなぜ、そのような「東西融和」が実現したのか。
それは廣陵先生が、真宗各派に(かつては)伝わり(その後、一度は廃絶しかけ)、小沢昭一氏、関山和夫氏、あるいは映画監督の篠田正浩さんなどが尽力されて復活・復権を遂げた「節談説教(ふしだんせっきょう)」の第一人者であるからにほかなりません。
家康が分断した東西両本願寺
それにしても、なぜ本願寺は「東・西」に分かれているのでしょうか?
それは、実質的に「戦国大名」として君臨し、加賀の国に至っては約1世紀の間「自治コミューン」として統治していた「一向宗」勢力の分断を念頭に、豊臣秀吉(1537-98)の死後、徳川家康(1543-1616)を中心とする関ケ原「東軍」勢力、のちの徳川幕府に繋がる人々が策略を準備した背景によるものと考えられます。
一向宗は、あの織田信長(1534-82)が長年苦戦、ほぼ唯一歯が立たず、朝廷を通じて和睦を申し入れた「石山合戦」(1570-80)の相手方でした。
もともと蓮如の隠居所だった大阪「旧上町半島」の突端は、守るに堅く攻めるのは困難、淀川からの補給が容易で長期の籠城も可能な難攻不落の地。
この石山合戦を率いたのは本願寺11世門主顕如(1543-92)の長男・教如(1558-1614)で、比較的穏健派だった顕如が紀伊・鷺森に引っ込んでも、一人石山本願寺に立てこもって抵抗を続けています。
若年ながらも血気盛んな主戦派として前面に立ったわけです。
ちなみに教如が去ったのち、豊臣秀吉は跡地にさっさと城を立てます。今日の「大阪城」にほかなりません。
そしてその建築に協力したのが、実は本願寺と真宗門徒衆という複雑な関係があります。
徳川家康は大阪城を攻め、のちのち豊臣氏を滅ぼすべく長期戦を工夫し「大坂冬の陣」の和睦条件として堀を埋め立てさせたのは周知と思います。
難攻不落だったのは秀吉の城というより教如=真宗本願寺の要塞であり、豊臣時代に真宗門徒が築城したシステムだったわけです。
ところが、2年後の「本能寺の変」で信長が死ぬと、24歳の若き策略家・教如は45歳の秀吉に和睦を持ち掛け急接近。
大阪城建築と商都大阪の城下町を築き、秀吉は真宗の社会的、経済的な後押しを受けるようになり、1585年には大阪天満に本願寺が移動。
さらに、秀吉が小田原攻めに勝利して全国を平定した1590年の翌91年には京都七条堀川に広大な本願寺領を賜り、これが現在の西本願寺にほかなりません。