本願寺内に権力闘争勃発

 1592年に本願寺11世顕如が没すると、跡継は長男の教如だと誰もが思いました。事実、一度は秀吉によって跡継ぎに認められます。

 ところが、本願寺内に権力争いが起こり、「顕如は遺言で温厚な性格の3男、准如(1577-1631)を指名していた」との主張が出ます。

 ひと悶着あったあと翌年末に弟、准如が本願寺12世に挿げ替えられることとなりました。ときに准如16歳。まだ少年です。

 翻って元来が策略家、かつ34歳と元気盛んな教如は本願寺内に造られた隠居所ならぬ「北ノ御所」と呼ばれる広大な邸宅で寺務を継続し、今度は家康に接近、経済的に徳川勢をサポートします。

 他方、弟の「准如少年」側は豊臣方の石田三成らと通じていると判断され、家康への接近を拒まれたりしている。

 最終的に秀吉の死(1598)後、関ケ原の戦い(1600)を制した家康が、後陽成天皇の勅許で京都七條烏丸に寺領を安堵。

 元来の本願寺とほんの二百数十メートルほど東の新たな用地に「北ノ御所」が解体移築されて、1604年「東本願寺」が開基。ここに、本願寺の東西分裂が確定的となりました。

 これに先立つ1603年、家康は徳川幕府を開いており、自らの政権の安定化に「一向宗」勢力の2分裂が役立ったのは間違いないところでしょう。

 このように本願寺を分裂に導いた背景には、かつて一向一揆の武将として信長、家康と戦った経験をもつ、のちの幕府初代老中・本多正信(1537-1616) の進言があったと伝えられています。

 歴史家、また真宗各派の観点からはいろいろ解釈が分かれるとは思いますが、ざっくり言って、幕府開府の徳川家康、老獪な60歳が、「本願寺隠居」とはいえ壮年の教如46歳の派閥と、「本願寺12世」正統とはいえまだ若者の准如27歳派閥を、京都の南辺に2つ並べて分立、覇を競わせたのは間違いありません。

 まさに「分割して統治せよ」の典型と言えるでしょう。

 このようにして家康が分裂を手助けした「東」の廣陵先生が「西本願寺」本山で説教に招かれました。

 実は廣陵先生は2024年11月、東本願寺でも「節談説教」で登壇しておられます。文字通り東西の分裂を超えた「説教による架橋」が成立しているわけです。

 そのお説教とは、どのようなものか?

 まずはあれこれ言わず、ご存じない方は是非、廣陵先生のお説教をご体験ください。