サウンドを土台から創る職人の支え

 指揮者は孤独な仕事です。誰も代わってくれません。でも同時に指揮者一人では何もできません。これは経営者、マネジャーも同じことです。

 自分が何かやったなどと奢ってはいけません。すべてはメンバーが出した音。指揮者が雑音を出したら、演奏の邪魔にしかなりませんから。

 2025年11月、調布の第九が「1本編成」で成立した最大の功労者は、もちろん一人ひとりのプレーヤーの尽力あってのことですが、ステージマネジャーの素晴らしい差配にありました。

 読者の皆さんはステージマネジャーという仕事、ご存じですか?

 舞台上の楽器配置はもとより、搬入搬出など裏方全般を「指揮」する本当の「縁の下の力持ち」です。

 力量のあるステマネ(ステージマネジャー)がいないと、今回の「1本編成の第九」は成立しないのが分かっていました。そこで八方手を尽くしたところ、何と斯界では知らない人のいないレジェンド、猪狩光弘さんが引き受けてくださり、今回の合奏が成立しました。

 猪狩さんは、2019年まで「サントリーホール」専属ステージマネジャーとして内外トップアーチストを支え、2021年には「日本製鉄音楽賞」特別賞も受賞されています。

 現在も札幌交響楽団のステージアドバイザーなどとして多忙な毎日を送っておられます。

 猪狩さんは実は、私にとっては一個人としてもっと大切なお名前です。

 40年前、まだ私が完全な駆け出しだった頃、新日本フィルハーモニー交響楽団の客演鍵盤奏者として、新日フィル・ステマネ時代の猪狩さんにどれだけお世話になったか、筆舌に尽くせないからです。

 当時は小澤征爾さんがバリバリの現役。新日フィルは井上道義・音楽監督ともどもステージに関してあれこれ無理難題を言い出すのを、井上順風のナイスガイな笑顔を浮かべ、寡黙にバリバリと処理していく剛腕の兄貴と思っていました。

 猪狩さんとは完全に現場だけのご縁だったので、プライベートは存じ上げなかったのですが、今回ご一緒して初めて、新日フィル首席トロンボーン奏者というか、日本オーケストラ界初の女性金管奏者としても名高い宮下宣子さんが猪狩夫人であったことなども知りました。

 宮下さんにも新日の大切な演奏で幾度も支えていただきました。

 特に今回、「一本編成」の第九で、合唱の後ろにトロンボーンを置くのは、合唱に音程を教える欧州のオペラ小屋ではごく普通の、また日本国内ではほとんど知られていない指揮者の知恵を使ったものですが、これを実現するのは私一人では不可能です。

 理解ある奏者の協力とともに、それが成立しているか、客席最後列まで駆け回ってサウンドチェックしてくださり、是は是、非は非として立ち位置を調整してくださる猪狩さんがいなかったら、絶対に不可能でした。

 小澤さんも飯守泰次郎先生もいなくなってしまったいま、40年前には駆け出しだった私が、同じ猪狩さんに支えていただける冥利は言葉に尽くせません。

 そうした蓄積のすべてを、一回一回の子供のための教室でも、大人の「指揮講座」でも、惜しみなくお教えしています。

 渋谷QWSの「指揮講座」は第九のような1本オケですらなく室内編成です。しかし得られる経験は同様、もしくは一人ひとりの反応が大きいので、コミュニケーションはむしろ濃密になります。

 渋谷スクランブルスクエアQWSの「指揮者はいかにして全メンバーの最大能力を引き出すか?(QWSアカデミアスペシャル 東京大学)」での大人向け「社会的情動育成」についても、回を改めて深掘りしたいと思います。

猪狩光弘ステージマネジャーのアレンジメントで響きが成立した「1本編成」のサウンド。ベートーヴェン「交響曲第九番ニ短調 合唱付」の筆者らによる演奏。 Photo by GakAz