「政経一体」とはどういうことか、というご質問を頂いた。実際に、エコノミストと政治学者では「中国株式会社」の捉え方がまるで違う。今回は双方の視点を比較しながら、政経一体の意味を考えてみたい。

計画経済から産業政策へ

死後30年、なお影響力を遺す毛沢東

文化大革命(1966年~1976年)の指導者、故毛沢東・国家主席は1976年9月9日にこの世を去った〔AFPBB News

 エコノミストは「産業政策」の分析から始める。例えば、こんな感じだ。

第1期:1978年以前(計画経済万能の時代)

 改革開放前の中国は計画経済であり、旧ソ連を模して1952年に設立された国家計画委員会が圧倒的な権限を有していた。当時の中国は建国、大躍進、文化大革命といった政治的激動期にあり、市場経済を前提とする「産業政策」の概念はなかった。

第2期:1978年から1998年まで(産業政策が生まれた時代)

 改革開放政策に伴い、国家計画委員会は、従来の「計画経済」に加え、次第に「産業政策」に関する権限も併せ持つようになる。但し、中国経済に占める国有企業の比重は圧倒的であり、真の「産業政策」が生まれるのは1990年年代中頃からだと言われる。

第3期:1998年から2002年まで(産業政策が一時後退した時代)

 国内市場経済の発展に伴い、「計画経済」はもはや時代遅れとされ、「市場原理」が「産業政策」よりも重視されるようになる。国家の市場関与は最小限にすべしとの「小さな政府」論に基づき1998年に国務院機構改革が断行される。

 その結果、国家計画委員会は国家発展計画委員会と名称を変え、「産業政策」に関する権限を失う。同権限は国家経済貿易委員会と対外貿易経済合作部に移管される。

 しかし、改革にもかかわらず、国内ではデフレが進行し、1997年のアジア通貨危機もあって、中国経済は深刻な停滞期を迎えてしまう。

第4期:2003年から現在まで(産業政策が復活した時代)

 こうした反省もあってか、2003年の国務院機構改革では、国家経済貿易委員会が3分割され、国家発展計画委員会は1998年に失った「産業政策」権限を取り戻す。さらに、同委員会は新たに「国家発展改革委員会(発改委)」として再出発する。 

中国シンクタンク、人民元の変動幅拡大を提言

国家発展改革委員会の傘下には国営シンクタンク、国家情報センターがあり、人民元の相場について強い影響力を持つ〔AFPBB News

 これにより、発改委はマクロ経済コントロール、社会発展戦略、中長期的指針等の政策研究、立案、策定、推進だけでなく、国務院各部門に対する総合調整、内外経済情勢の予測、石油製品や電力、水道料金などの価格決定、経済体制改革の指導に責任を担う中国国務院のスーパー官庁となっていった。

 政治学者にはどうもぴんとこない。この発改委こそが「中国株式会社」の司令塔なのだという結論は分かるとしても、このような経済政策史的アプローチだけでは「中国株式会社」の政治的意味がちっとも見えてこないからだ。