「山奥の釣り場に行ったら、クマを遠ざけるためにも、まずはタバコを一服せよ」
春は子グマが生まれ育つ時期で、母グマは子グマを守るために神経を尖らせている。この時期のクマは非常に危険だ。
そして6~7月は繁殖期になる。繁殖期を迎えた若いオスは、親と別れて、メスを求めて移動する。人里に出没する機会も増える。今はこの時期に当たる。
夏の時期のクマは、サクラやクワの実、セリ科などの草本類、アリやハチなどの昆虫類などを食べており、これらを探して広い範囲を行動することもある。ただ、本州に生息するツキノワグマは基本的に臆病な性格なので、人の気配がすれば近づいてこない。
秋(10~11月頃)になると冬眠前のクマが体に栄養を蓄えるために食料を手に入れようと躍起になっている。普通は山奥にあるブナの実やクルミなどを食料にするが、実りが悪い場合には人家のある畑などに出現してエサを漁ることもある。その場合でも、まれに鶏などの家畜も襲うことがあるが、やはり人の気配を察知すると一目散に山奥に逃げていくのが習性である。
筆者が足を伸ばしていた渓流は、岩手県を南北に貫き宮城県の石巻市まで流れる北上川の支流・和賀川の上流である。北上川と和賀川は北上市で合流する。そこから和賀川沿いを上流に向かうと「錦秋(きんしゅう)湖」と名付けられているダム湖があるが、さらにその先が本格的な和賀川の渓流地域になる。
住所的には西和賀町となるが、岩手県でも豪雪地帯としても知られている地域であり、町内を流れているこの和賀川のさらに支流が、筆者が狙う場所であった。
むろん近所には人家もほとんどない山奥であるが、夏場に行くことが多かったのでクマの怖さというのはあまり感じなかった。支度をして竿を出す前に岩に腰掛けてタバコを一服する“儀式”は必ず守るようにしていた。それは釣りの先輩から教えられていたことだ。
「釣り場に行ったら、竿を出す前にタバコを一服すること。タバコの煙は周囲1キロ以上に流れていくので、クマはそこに人間が入ったことを認識するので出没することはなくなる。3分間ほどゆっくりとタバコをふかすのは釣り人の心にも余裕を与えてくれるから大事なんだ」
果たして先達の金言が、科学的に根拠があることなのかどうかは分からないが、数十年もの間、渓流釣りをして遠くにいるクマを目撃したことはあるが、間近でクマと遭遇したことがなかったのは確かである。また、河原の大きな石ころを藪に向かって投げつけて音を出すこともしていたのが、その効果も皆無ではなかったかもと思っている。