セツの実母・チエの、悲劇的な最初の結婚

 セツの実母・チエは、塩見増右衛門の一人娘として、天保8年(1837)3月21日に生まれた。

 チエは、類い希な美貌の持ち主で、「御家中一番の御器量」と称された。すらりと背が高く、その姿は鳥居清長の錦絵美人に例えられる。

 チエの初めての夫は、セツの父・小泉湊ではなかった。

 小泉一雄『父小泉八雲』によれば、チエは13歳の時、ほぼ同格の家柄である武士の家に嫁いだ。

 婚礼が行なわれた晩、チエはとんでもない悲劇に見舞われる。

 花嫁となったチエは、寝所で花婿の訪れを待っていると、庭先から、ただならぬ物音が響いてきた。

 チエは護身の合口(懐刀)の袋緒を解き、雪洞(ぼんぼり)をさげた侍女を一人従えて姑の居間に向かい、廊下から姑に、「母上様、御寝なりましたか? 夜中お騒がせ申し相済みませぬが、旦那様にはいまだに御床入りなく、しかも、ただ今、お庭前にて、ただならぬ物音が致しました」と、取り乱した様子も見せずに告げている。

「はて、面妖な」と家中の者たちが呼び起こされ、手燭や提灯を手に庭へ下りた。

 すると、そこには血の臭いが漂う中、腹を一文字にかき切ったうえに、右頚筋(首筋)を斬った男が雪見燈籠(ゆきみどうろう)に突っ伏し、首をほぼ斬り落とされた状態の女が松の根本に倒れているという、世にも凄惨な光景が広がっていた。

 男は花婿。女は花婿の愛妾の腰元(侍女)で、2人とも息絶えていた。

 花婿は婚礼の当日まで、愛妾の腰元を家に置いていたが、この夜を最後に親許へ帰すはずだった。

 ところが、花婿は愛妾を手放すのを惜しみ、愛妾の首を打ち、自らも腹を切り、無理心中を図ったのだ。

 翌日に参集した親戚一同の多くが、家名を汚した花婿を罵った。

 葬式の真似事すら必要なしとされ、遺体も「表門から出すことは憚りならぬ」と、不浄門よりそっと運び出された。まるで、捨てるかのような葬り方だったという。

 この心中事件後、チエはすぐに里に引き取られている。

 僅か13歳の若き身で健気に振る舞ったチエを、褒め称えない者はいなかった。

「嫁に欲しい」という申し込みが殺到し、決めかねて、チエ自身に尋ねたところ、彼女が選んだのは小泉家だった。

 そうして、心中事件から1年余を経た嘉永4年(1851)の晩秋、チエは小泉湊のもとに嫁ぎ、セツが誕生するのである。