母方の祖父は、死を以て主君を戒めた

 由緒ある家柄の小泉家だが、セツの実母・チエの実家のほうが格上だった。

 チエの父は、松江藩の名家老と謳われた塩見増右衛門である。

 禄高は千四百石。松江城二の丸御殿のすぐ前の広大な敷地に屋敷を構えており、小泉一雄『父小泉八雲』によれば、召使を30人近く抱えていたという。

 セツにとって母方の祖父にあたる塩見増右衛門は、「松江のやんちゃ殿様」と称された、出雲松平家九代目の松江藩主・松平斉貴を、死を以て諫めたことで知られる。

 松平斉貴は英主であったが、品川にある松江藩の下屋敷に5階建ての家を造営し、望遠鏡、渡来時計などを集め、日々、酒盛りを繰り返すなど、贅沢と遊びが過ぎていたとされる。

 嘉永4年(1851)には、お国入りの年であるにもかかわらず、幕府には病気と偽り、江戸に残って放蕩の日々を送った。

 当然のことながら、松平斉貴の放蕩は、藩の財政を圧迫する。

 また、藩主不在の影響により、国元の政治が乱れた。謀反を企む者さえも、現われたという。

 この事態を憂いだのが、塩見増右衛門である。

 江戸家老として赤坂の藩邸に入っていた増右衛門は、2度にわたって諫言を試みた。

 しかし、斉貴は馬耳東風だった。

 3度、主君を諫めようとした者は、主君の怒りを買い、死を言い渡されるのを覚悟しなければならない。

 増右衛門は一命を賭す覚悟を決め、陰腹を切り、その上に白木綿を強く巻き付けて、同年11月2日、3度目の諫言を行なっている。

 諫言を終えて退出する増右衛門の顔色が尋常でないことに、松平斉貴は気付いた。

 松平斉貴は急ぎ近侍に、増右衛門を呼び戻すよう命じている。

 近侍は家老の詰所に駆けつけ、「御家老様、御家老様」と、繰り返し呼びかけたが、返事はない。

 近侍が襖を開けて中を見ると、増右衛門はすでに絶命していた。

 増右衛門の命と引き換えの諫言は、松平斉貴に届いた。

 松平斉貴は翌年早々に、帰国している。

 小泉一雄『父小泉八雲』によれば、松江にいる増右衛門の長男・小兵衛は、松平斉貴を恨み、出迎えもしないだろうと、誰もが懸念していた。

 ところが、それは杞憂に終わった。

 小兵衛は、定まりである松江城下外れの津田の松原ではなく、国境の安来まで数里も遠出し、心から喜んで、「よくこそ御帰国」と出迎えたのだ。

「増右衛門の諫死、小兵衛なる出迎え等奇特の至りとあって、それまでは千石の禄高がこの時四百石加増となった故」と、小泉一雄は記している。

 セツの手記「オヂイ様のはなし」(小泉節子『思ひ出の記』所収)によれば、この増右衛門の話は、江戸の町々にも知れ渡った。

 そして、『線香山』という題で講談となり、『三本杉家老鏡』という劇になったという。

 セツは子どもの頃、友達の家に行くと、そこの老人から、よく増右衛門の話を聞かされている。

「あなたのお祖父様は忠義なえらい方でございました」と称えられると、セツは自分が褒められたように誇りを感じて、愉快だったという。

 セツは祖父を誇りに思い続け、当然のことながら、夫のラフカディオ・ハーン(小泉八雲)にも、この祖父の諫死の話を語って聞かせている。