石切劔箭神社 写真/Skylight/PIXTA(ピクスタ)
(吉田さらさ・ライター)
『石切劔箭』の意味は?
2025年夏、大阪万博を訪れたついでに奈良や京都に足を伸ばして寺社巡りを計画している人もいるだろう。しかし実は大阪エリアにもぜひお参りしておきたい神社がいくつもある。今回はその中のひとつ、石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)をご紹介しよう。
生駒山の麓、東大阪市に鎮座するこの神社は、天孫降臨や神武東征など日本建国の神話と深くかかわる由緒を持っている。ご利益絶大と言われるお百度参りや独特な雰囲気を持つ参道も人気で、関西人の間では「石切さん」という愛称で親しまれている。
近鉄奈良線の石切駅から徒歩15分。近鉄けいはんな線の新石切駅からは徒歩7分。新石切駅からの方が近いが、石切駅から神社までの参道には昭和風情の商店街が延々と続いており、こちらも必見だ。しかしこの参道は駅から神社に向かって急な下り坂、つまり神社から駅に向かうとたいへんな登りになるので、行きは石切駅、帰りは新石切駅という方法がもっとも効率がよい。
魅惑の商店街についてはのちほど詳しく語るとして、まずは、この特別な由緒を持つ神社について学んでおこう。そもそも神社の名前である『石切劔箭』とはどのような意味なのだろう。
劔箭とは剣と弓矢のことで、岩(石)をも切り裂くほど御神意が強いことを表わしているという。祭神は饒速日尊(にぎはやひのみこと)とその子の可美真手命(うましまでのみこと)の二柱。饒速日尊は、一説には、天孫降臨で名高い瓊瓊杵尊の兄神つまり天照大神の孫(天孫)とされ、飛鳥時代の有力な豪族である物部氏の祖先である。物部氏が著した歴史書「先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)」には、この神が日本建国にどのように関わったかが詳しく書かれている。
はるか昔、河内と大和一帯は戦闘に秀でた『長髄(ながすね)の者』と呼ばれる一族に治められていた。高天原では天照大神が孫の饒速日尊に『十種の瑞宝(人々を治め、心身の病気を治す霊力を持つ宝)』を授けて建国を命じた。饒速日尊は豊前の宇佐に降臨し、大和を目指した。つまりこの神はよく知られた瓊瓊杵尊より前に天孫降臨をして、神武天皇より前に東征を行ったということである。
そのころは『長髄の者』の長である長髄彦が大和を治めていたが、饒速日尊の徳の高さに感銘を受け、一族で従うようになった。それにより大和は繁栄を極めたが、弟の瓊瓊杵尊も天照大神から『十種の瑞宝』を授けられて日向の高千穂に降臨し、その子孫の神倭伊波礼毘古命(かみやまといわれびこのみこと、のちの神武天皇)が東征を始めた。
大和に到達し、長髄彦の激しい抵抗を受けていったん撤退するも、神の助けを得て態勢を整え、今度は熊野から大和に向かった。大和ではすでに饒速日尊が亡くなり、子の可美真手命が治めていた。神倭伊波礼毘古命と可美真手命は相まみえ、互いが天照大神から授かった『天羽々矢』を持っていることを知った。これにより、自分たちは同じく天照大神の子孫であることがわかり、戦うことは無意味と悟った。
かくして可美真手命は神倭伊波礼毘古命に忠誠を誓って国を譲り、大和は統一された。神倭伊波礼毘古命は初代神武天皇として即位。その翌年の皇紀二年、可美真手命は出雲平定に向かう際に、生まれ育った場所に饒速日尊を神として祀った。これが石切劔箭神社の始まりとされる。
これはあくまで物部氏の視点による神話なので、実際にこのように穏やかに国が譲られたのかどうかは定かではない。しかし日本書紀にも饒速日尊の降臨についての記述があることから、神武東征以前にこの地域に君臨していた氏族がいたことは確かなのだろう。ということで、饒速日尊とその子の可美真手命を祀る石切さんは、日本建国の歴史を物語るきわめて重要な神社なのである。