吉原遊郭の吉原大門跡(写真:a_text/イメージマート)

吉原の妖艶な魅力は「柳橋」から始まっていた

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 徳川幕府から正式なお墨付きを得ていた、江戸唯一の公認色街で日本三大遊郭(京都・島原、大坂・新町)の一翼を担った吉原。

 現在放送中のNHK大河ドラマ『べらぼう』の舞台となっているが、江戸時代の終焉からすでに150年以上が過ぎ、栄華を極めた一大色里は、すでに落語や歴史書でしか触れることができない遠い昔話、との感がある。

 だが実際に吉原界隈を注意深く訪ねてみると、往時の“残り香”がいまだ鮮明に残っていることに驚かされる。

 殿方の極楽浄土だった吉原の妖艶な魅力は、実は距離的に遠い「柳橋」から始まっていた。

隅田川。左が神田川入り口で柳橋。川の先に吉原がある(筆者撮影)

 今で言う吉原は、江戸の中心・日本橋の北にある浅草寺のさらに先、現・台東区千束にあり、厳密には「新吉原」と呼ぶ。対する「旧吉原」は、江戸幕府成立(1603年)から間もない元和3(1617)年に現・日本橋人形町で開業した。

 しばらくすると、江戸が急激に膨張し、幕府公認の色街が町中で異彩を放つのは都合が悪くなり、明暦3(1657)年の「明暦の大火」を機に、浅草寺のさらに奥の水田地帯へ全面移転することを幕府から許可された。そして、「新吉原」として再スタートを切り、日本屈指の“殿方の街”として現在に至る(以後「吉原」)。

蔦屋重三郎が新吉原の大門前に開業した「耕書堂」を模した施設「江戸新吉原耕書堂」。観光案内や土産販売を行っている(筆者撮影)

 贔屓とする日本橋・神田の旦那衆は、江戸中心から約5kmも離れた一大遊郭までの交通手段として、神田川が大川(隅田川)に達する場所の花街・柳橋(現・台東区柳橋)の猪牙舟(ちょきぶね)を好んで利用した。全長10m弱の細長い木製の和舟で、舳先がイノシシの牙のように尖っているのが名前の由来らしく、櫓を操る船頭1人と客1~2人が定員だ。

 ほかに駕籠(かご)や馬という選択肢もあり、こちらの方が速いが、陸上を移動するため土埃を被る恐れがある。その点、舟にはその心配はなく、ゆっくり景色を眺めながら遊郭を目指す方が、姿形も粋(いき)で鯔背(いなせ)だ。特に江戸っ子は、この「粋で鯔背」には人一倍こだわった。

 旦那衆は、はやる気持ちを抑えつつ、柳橋の船宿で軽く1、2杯酒を引っかけ、ほろ酔い気分で猪牙舟に乗り、いざ出陣。

柳橋。手前が神田川で奥の柳橋(アーチ状の橋梁)の先が隅田川。現在は屋形船の一大基地だが、かつては船宿が並び神田や日本橋の旦那衆が猪牙舟に乗り込み吉原を目指した(筆者撮影)