二軍が都市対抗野球に出場?
1950年、プロ野球はセントラル・リーグ、パシフィック・リーグの2リーグに分立したが、阪神タイガース、広島カープ、東急フライヤーズが二軍を創設。
しかし広島は資金難のため2カ月で二軍を解散した。解雇された選手の中には広島労働基準監督署に訴えた選手もいた。
さらに、一軍のプロ野球チームを持っていない兵庫県の山陽電鉄が、二軍だけのチームである山陽クラウンズを創設した。
1950年時点で二軍を持つ球団は山陽も含め9球団だった。
依然としてリーグ戦は行われなかったため、各チームの二軍は地方巡業などで試合をしていた。また一軍の試合の前に「前座試合」として二軍戦を実施することもあった。
この年11月には、二軍日本一を決めるトーナメント大会が開かれ、南海が優勝した。
この時期は、プロアマの区別があいまいだった。翌1951年、南海ホークスは二軍選手を南海グループの南海土建に出向させて、都市対抗野球に出場させた。南海土建は勝ち進み、8月、後楽園球場で行われた決勝戦でオール鐘紡に負けたものの準優勝した。
しかし社会人野球側はこれを問題視し、規則を改定。南海土木は野球部を解散した。
1952年、ファーム初めてのリーグ、関西ファームリーグが始まった。このリーグは日本野球機構に所属しない独自のリーグだった。阪神、南海、阪急、松竹(翌年から洋松)、西鉄、名古屋(現中日)に二軍だけの山陽の8チーム。しかし山陽クラウンズは経営的に苦しく、この年限りで解散した。
翌53年には、広島に二軍が復活して再び8チームとなる。阪神ファームではのちに殿堂入りする320勝の大投手、小山正明も投げている。
関西ではこうして二軍リーグが順調に滑り出したが、関東には二軍リーグは存在しなかった。