急逝した鹿内春雄氏が残した功績

 フジの創業者は水野成夫氏。国策パルプ元社長で、財界四天王と呼ばれた。視聴率は全体的に低調だった。

 2代目社長の鹿内信隆氏は元ニッポン放送専務で、水野氏が病に倒れると、経営権を握る。

 鹿内氏は1977年、軍事政権を率いていた朴正煕・韓国大統領に独占インタビューする。フジはそれをゴールデンタイムに放送した。鹿内氏はタカ派色を隠さなかった。この路線は今も報道番組で受け継がれている。

鹿内信隆氏(写真:共同通信社)
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 視聴率は相変わらず悪かった。1971年から10年間、制作部門がなかったから、当然だった。それでも番組がつくれたのは社内にフジポニーなどの制作子会社をつくったからである。鹿内氏が制作部門を斬り捨てた狙いは合理化だ。目論見どおり、給与も制作費も削れた。だが、番組の質も落ちた。

 救世主となったのは鹿内氏の長男・春雄氏である。1981年、35歳で副社長となった春雄氏にはリーダーとしての才能があった。

「銭形平次」の放送終了が決まり、記者会見するフジテレビ副社長時代の鹿内春雄氏(右)。中央は俳優の大川橋蔵、左は岡田茂・東映社長=1983年9月(写真:共同通信社)
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 まず制作子会社の社員たちをフジの社員に登用した。子会社社員達たちは意気に感じ、張り切って働いた。編成局長に就けたのは42歳の日枝氏。人事部長の推薦だった。春雄氏は日枝氏に自由にやらせた。

 1度目の黄金時代は35歳の春雄氏と42歳の日枝氏によって始まった。それを、日枝氏を中心にフジ全体で忘れている。これが業績不振と不祥事体質を招いた6つ目の理由と見る。

 1985年、春雄氏はフジなどの会長に就任する。ところが1988年、春雄氏が急性肝不全で急死してしまう。42歳の若さだった。混乱の始まりだった。