正直、以前の僕はキャッチャーのことがよくわかっていなかった。
わからなくて不安だから、野村克也さんや古田敦也さんの本を読んだり、話を聞いたりして、一所懸命勉強した。詰め込むだけ詰め込んで、頭でっかちになっている状態だ。
その頃は、経験がないのだからそうやって学ぶしかない、教わるしかないと思い込んでいた。
ところが不思議なもので、監督という仕事をやっていると、だんだん自分の中に「キャッチャーはこうあるべき」というものができてくる。
実際、自分でキャッチャーをやるわけではないのだが、そのキャッチャーに指示を出さなきゃならないと思ったら、本当に自分がなったくらいのつもりで、毎試合、必死にキャッチャーのことを考えるようになる。
それを続けているうち、頭でっかちになっていたものが少しずつクリアになっていき、本当に大事なものだけが浮かび上がってくるのだ。
すると、そこでようやく「捨てられるもの」が出てくる。
勉強の成果で、大事なものは10個あると覚えていたが、そのうち本当に大事なものは3個なんだということがわかってくると、残りの7個は捨てられる。
要不要が自分の中で整理できて、より必要なものがはっきりとしてくる感覚だ。
こういう「捨てられるもの」は、経験を積んできたからこその賜物だろう。
また、もう一方で、捨てなければならないというものもある。
何かひとつを決めるというのは、何かひとつを捨てる作業だ。
ふたりいる選手のどちらを起用するか迷ったとき、勝つために最善と思われる選択をする。それは当然のことだ。
でも、本当にふたりとも使ってやりたかったとすれば、チームの勝利のために、一方の自分の考えを捨てたということになる。
ある意味、監督である僕が、自分の考えを捨てていかなければ、すなわち決断していかなければチームは前に進むことができない。
いつもひとつしか選択できないわけだから、捨てるものはその度にどんどん増えていく。
選手一人ひとりのためになんとかしてあげたいと思うし、みんなの人生を豊かにしてあげたいと思うが、そればかり考えていたら監督の仕事は務まらない。本当に監督の仕事とは、捨てる作業だと思う。
だから考えを捨てるときも、その選手のためになると信じてそうするようにしている。使うのも選手のためだし、使われなくて悔しい思いをするのも選手のため。選手のことだけを考えて決断すれば、それは必ずチームのためになる。今年はその信念みたいなものが、確信に変わった年でもあった。
「選手ためにはならないかもしれないけれど、チームのためにこうする」、その考え方は間違っている。
「選手のため」と「チームのため」はいつも一緒だ。
そこがブレることは絶対にない。だから捨てなければならないものを、信じて捨てることができるのだ。
(『監督の財産』収録「5 最高のチームの作り方」より。執筆は2016年10月)