日中戦争、文化大革命を経て、墓の塚が残るだけに

 張角は当初、184年3月5日に挙兵する手はずを進めていたが、弟子が寝返って計画を密告。後漢の首都・洛陽に潜伏していた信者たち千人が処刑されてしまった。そこで、急きょ全国に檄文を飛ばして決起したという。

 黄巾軍は地方の役所を襲撃し、洛陽に迫る勢いとなった。歴史書には「張角が反乱を起こすと各地の賊徒も次々に挙兵した」と記されている。

 慌てた朝廷は皇后の兄の何進(かしん)を大将軍に任命。洛陽の防備を固めさせ、将軍たちを鎮圧に向かわせた。また、黄巾軍の討伐を名目に、各地の豪族や若者が義勇兵として旗揚げした。それが後に、三国時代の群雄割拠につながることになる。

 その中に、洛陽の官僚だった曹操(当時30歳)や地方役人だった孫堅(当時28歳)、そして劉備(当時24歳)がいた。後に劉備の軍師となる諸葛亮は当時4歳。彼の郷里も戦火に焼かれたと伝わる。

 やがて、反乱軍は鎮圧されたが、残党は10年以上活動を続けた。

 張角の墓がある七級村に伝わる逸話では、黄巾の乱が起きた年に張角は病死。黄巾軍の将軍だった張角の兄弟たちが官軍に殺害された後、張角らの遺体は農民たちが奪い返してひそかに埋葬した。

 人々が四十九日(七七日)法要に当たる「七祭」で張角らを弔ったことから、この地は「七祭(チージー)」という名前になったが、朝敵を埋葬したことがばれないよう「祭(ジー)」に発音が似た文字で改称を重ね、現在の「七級(チージー)村」になったという。

 墓所はかつて7000平方メートルもの広さがあったと伝わるが、日中戦争時に旧日本軍の砲台が建てられたり、文化大革命で破壊されたりして、張角の墓の塚が残るだけだった。

七級村に残る張角の墓。規制線に囲まれた高さ2~3mほどの塚だった