「張角の墓はそこで間違いないよ。われわれが大事に守ってきた」

 興味を持ったタクシーの運転手も付いてきたので、3人で鳥の鳴き声を聞きながら小道を歩く。やがて、畑や住宅がある中に1カ所だけ土が盛られた塚のようなものがあった。高さ2~3mほど。立ち入り禁止テープで囲まれている。

 運転手が近所の家のチャイムを鳴らすと老夫婦が出てきた。「張角の墓はそこで間違いないよ。われわれが大事に守ってきたから」。笑顔で指さした。物語の世界の人物に近いイメージだった張角の墓が本当にあるんだ。そう思うと、胸が躍った。

張角の墓の近くに住む夫婦

 歴史書によると、張角はお札と聖水で病気を治して民衆の支持を集めた。布教を始めて十余年で数十万人の信者を持つまでになったという。

 太平道の教えはこうだ。病は天の罰。病人はまず自分の罪を懺悔した上で、護符を沈めた符水を飲むと病が癒える——。

 太平道は、仏教、儒教とともに「中国三大宗教」と呼ばれる道教の源流の一つとされる。平等思想が説かれ、経典には「ともに策を合わせ、ともに太平を致さん」「財を積むこと億万、あえて窮せるものを救わず、人をして飢寒に死せしむるは、罪除かれざるなり」といった文言があり、世直しを目指していたという。

 政治が腐敗し、外戚と宦官の争いが続いていた後漢末。病人だけでなく、重税と飢饉に苦しみ、故郷を捨てた流民たちも太平道に救いを求めて張角の信者となった。やがて教団が大きくなると、張角は数十万人の信者を36の「方」という支部に分け、それぞれの組織に「渠師(きょすい)」というリーダーを置いた。

 中国には古来、王朝の交代を天帝の意思として正当化し「天子の徳が衰えれば、姓が違う別の有徳の人物に天命が下り、新たな王朝を開く」という思想がある。「易姓革命」と呼ばれ、具体的には、有徳者から位を譲られる「禅譲」と、権力を武力で奪い取る「放伐」の二つの方法があった。

 中国各地に広がる民衆の不平不満を受け、張角は太平道の国家建設を目指して、後者の放伐を志したのだろう。「方」を軍隊化し、武装させた。

 そして184年、漢の天下が終わり自分たちの天下が始まることを指す「蒼天已に死す。黄天まさに立つべし」をスローガンに、一斉に蜂起した。目印に黄色い頭巾を巻いていたため、後漢の朝廷は彼らを「黄巾賊」と呼んだ。