復権しつつあった伊周と道長の関係に変化
藤原道長を支えた四納言の一人でありながら、1歳年下の藤原斉信(ただのぶ)に出世で抜かれると、出仕しなくなった藤原公任(きんとう)。前回記事(『光る君へ』執筆動機が分かっていない紫式部の『源氏物語』、藤原道長はどこまで大きな役割を果たしたのか?/8月24日公開)で解説したとおり、公任が辞表を出したところ慰留されて、公任と同じく従二位へと位を引き上げてもらうこととなった。
ドラマにおいては、辞表を出すようにアドバイスしたのは、ロバート秋山演じる藤原実資(さねすけ)だったという設定になっている。斉信は「ゴネ得ではないか」と絡みながらも、公任が内裏に戻ってきてくれたことがどこかうれしそうにも見える。3人でワチャワチャしている様子は、SNSでも話題となった。
そんな和やかなムードとは程遠く、復権すべくギラギラと野心を燃やすのが、藤原伊周(これちか)である。伊周といえば、かつては道長のライバルだったが、「長徳の変」と呼ばれる不祥事をしでかしたことで、運命が一転。左遷させられて、あえなく失脚したかに見えた。
だが、体調を崩した一条天皇の母・詮子(あきこ)が回復するようにと、大赦が発せられたことで、伊周や弟の隆家は京に戻ることが許される。そんな中、伊周の妹で中宮の藤原定子が、一条天皇との間に第1皇子となる敦康(あつやす)を出産。伊周に追い風が吹いてきた。
その後、定子は一条天皇との間に第3子を出産すると、産後の不調によって、間もなくして亡くなってしまう。だが、定子の死後も、一条天皇の皇子はしばらくほかに産まれなかったため、敦康がひとまずの後継者候補となる。道長は後見人として、道長の娘・彰子は養母として 、敦康をバックアップすることになった。
ドラマでは、「伊周を引き上げたい一条天皇、それを阻止したい道長」という構図が透けて見えたが、事はそう単純ではない。というのも、一条天皇の次に天皇になるのは、道長の甥で皇太子である居貞親王(いやさだしんのう)というのが既定路線であり、居貞親王のもとには、第1皇子となる敦明親王(あつあきらしんのう)がいる。
道長からすれば、居貞親王から息子の敦明親王へと皇位が引き継がれることは避けたい。現時点で娘の彰子に懐妊の兆しがなく、第1皇子が敦康親王である以上、道長としては敦康をバックアップするほかなかったのである。
敦康の重要性が増せば、おのずと伯父である伊周の地位も引き上げられていく。長保5(1003)年に従二位に叙せられると、その2年後の寛弘2(1005)年には座次を大臣の下、大納言の上と定められた。
道長と伊周は、互いに新しい関係を構築しようと模索し始めたらしい。道長が残した『御堂関白記』には寛弘元(1004)年から、「帥(そち)来り」という記述が見られるようになる。「帥」とは、藤原伊周のこと。伊周は頭痛を患う道長を見舞おうとし、また道長のほうも伊周の詩に唱和するなど、静かな交流が生まれていくこととなった。
しかし、そんな関係も道長の娘・彰子が懐妊したことで早々に崩壊する。伊周がどんな運命をたどるのかも、今後の見どころのひとつである。