大谷 達也:自動車ライター
キース・サットンやアレックス・ホークリッジが登場する上に的確な描写
Netflix シリーズ「セナ」を見て、私が知るモータースポーツ・ドラマのなかで史上最高の傑作だと思った。
私がモータースポーツを取材し始めたのは1990年。したがってレースの現場でアイルトン・セナ自身を間近に見たことは何度もあるし、本作品に登場するモータースポーツ関係者をインタビューした経験も少なからずある。そんな「当時の空気」を肌で知っている私にとっても、本作品は迫真の仕上がりで、何度も胸を打たれ、涙があふれ出しそうになった。
主演のガブリエウ・レオーニがセナに似ているか、似ていないかという議論があるのはよくわかる。残念ながら、私自身も彼がセナとうり二つだとは思わない。とりわけ、セナがときとして浮かべた美しくも悲しげな笑顔は、いかにレオーニが優れた俳優だとしても再現仕切れなかったように思える。
けれど、彼をセナと思い込んで感情移入するのは難しくなかった。だから、筋書きを追うのは容易だったし、感動もした。保守的なモータースポーツ界の象徴で、ヨーロッパ的な価値観を守るためなら手段を選ばなかったジャン-マリー・バレストールFIA会長(当時)にセナがどんな感情を抱いていたかもよく理解できた。心温まる家族との交流や宿敵アラン・プロストとの対立も、三流ドラマによくある安っぽい表現に陥ることなく、無理なく、それでいてしっかりと描かれていた。
セナのキャリアの初期を支えた登場人物、たとえばキース・サットンやアレックス・ホークリッジといった、一般にはあまり馴染みのない人物を登場させた脚本家の手腕も見事だし、彼らの描写も的確だった。ちなみに元F1フォトグラファーのサットンは私の30年来の知人で、2024年のグッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードでもずいぶんと長話をした。F1チームのトールマンを率いたホークリッジもレイナード時代に長時間インタビューしたことがある。そんなふたりまで取り上げたところに、セナの生涯を深く掘り下げようとした制作陣の意気込みが表れているように思えた。
セナのヘルメットの内側は緑だった!
レーシングカーやレース関連小物の再現振りも見事だ。
とりわけ心を動かれたのがレーシングカーの忠実な表現と、その動き方のリアルさだった。聞けば、カウルのないフォーミュラカーをサーキットで走らせ、そこにホンモノのレーシングカーのデジタル画像を合成して迫力ある走行シーンを生み出したとか。ホンモノと寸分違わないレーシングカーがカメラの直前を走ったり、緊迫のバトルを繰り広げたりするのは、こうした最新技術を駆使した結果だったのである。おかげで、当時オンエアされたライブ映像以上の躍動感を堪能できた。
レーシングスーツやヘルメットの再現振りにも舌を巻いた。そうしたレーシングギアに貼られたバッジやステッカーが当時とまったく変わらないように見えたことにも驚いたが、マクラーレン時代のセナが被っていたヘルメットの内装材が緑だったことには、制作陣の狂気的ともいえるこだわりように度肝を抜かれる思いだった。ちなみに、これはホンダ系ヘルメット・ブランドのRHEOS(レオス)がセナとゲルハルト・ベルガーのふたりだけのために作ったもので、内装材はセナが緑でベルガーはブルー。正直、このセナ用レオス以外に内装材が緑のヘルメットを私は見たことがない。いったい、どうやってこれを再現したのか。私には想像もつかない。
ややマニアっぽいエピソードが続いてしまったけれど、本作品においてそれらはあくまでも小物に過ぎない。けれども、そうしたディテールにまでこだわって作られたドラマが、嘘っぱちだったり過剰にデフォルメされているはずがなかろう。そして迫真のストーリーと忠実度の高い映像によって、私たちは物語にぐいぐいと引き込まれてしまうのである。
これほどまで、事実に即しているのにエンターテイメント性が高い作品は、既存の映画制作者にもテレビ関係者にも作れなかったに違いない。過去半世紀以上にわたりF1グランプリを一顧だにしなかったアメリカ人が、Netflix製作の「FORMULA1 栄光のグランプリ」をきっかけにしてF1に熱狂し始めたことはよく知られているけれど、本作品を見てその理由がよく理解できたような気がした。
後藤 治さんはセナとカラオケに行ったのか?
ここまで持ち上げておいてなんだけれど、こちらも30年来の知人である後藤 治さん(第2期ホンダF1の立役者のひとり)の描き方だけは、いささか残念だった。そもそも1990年前後の後藤さんは、作品に登場する俳優さんよりもはるかに引き締まった顔つきだったし、いつもクールであまり感情を露わにするタイプではなかった。
とりわけ不自然だったのが、セナと後藤さんが銀座のクラブかなにかで初対面するシーンで、そこでふたりは本田宗一郎さんを前にしてカラオケを熱唱していた(曲はTears for FearsのEverybody Wants to Rule the World)。個人的に、これだけは絶対にないと思って後藤さんにメールを送ったら「(ナイジェル・)マンセルとは鈴鹿で桜井(淑敏)さんと一緒にカラオケに行ったことはあったけれど、セナとカラオケに行ったことはありません」という答えが返ってきた。ただし、作品への注目度は恐ろしく高かったそうで、「フェラーリの昔の仲間と会うたび『オサム、見たぞ。ウフフ……』と笑われています」と教えてくれた。
いずれにせよ、作品を見ているこちら側さえムキにさせてしまうほど、「セナ」が優れたドラマであるのは間違いない。そして、これだけの作品を作り上げてしまうNetflixのすごさに、改めて打ちのめされたような気がする。