大谷 達也:自動車ライター

自動車ライター 大谷 達也の今回の記事は7月5日(金)ロードショーの映画『フェラーリ』について。主役のエンツォ・フェラーリを演じるのはアダム・ドライバー。製作総指揮としてもクレジットされている

フェラーリを愛するマイケル・マンが監督・製作

 自動車やモータースポーツの史実に基づいた映画をクルマ好きが見ると、たいていの場合、ガッカリする。まあ、これは自動車関連に限った話ではないかもしれないが、表情や台詞が妙に芝居がかっていたり、クルマのアクションがやたら派手だったり、クルマの形状や細部が正確でなかったりすることで、なんとなくしらけてしまうのだ。

 そうしたなかでいえば、ジェイムズ・ハントとニキ・ラウダのライバル関係を描いた「ラッシュ/プライドと友情」、それに有名な買収劇とルマン24時間を絡めて描いた「フォードvsフェラーリ」はいずれもいい出来だったが、それらをはるかに上回る迫真の作品が完成した。「フォードvsフェラーリ」で製作総指揮を務めたマイケル・マンが監督と製作の2役をこなした「フェラーリ」が、それだ。

 主人公は、世界中のモータースポーツで数多くの栄冠を勝ち取り、誰もが憧れるスポーツカーを手がけるフェラーリ社を創業したエンゾ・フェラーリ。この映画では、マラネロのファクトリーやモータースポーツを戦う様子も描かれているが、いずれも抑制が効いた表現でリアリズムに溢れている。もちろん、時代考証も文句なし。たとえば、エンゾがサーキットの人混みのなかを歩くとき、ほんの数秒だけ観客の女性が映り込むのだが、その驚きと微笑みがない交ぜになった横顔は、1950年代のサーキットを撮影した写真で見かける表情にそっくりだ。

負けて潰れかけの新興自動車メーカーとして描かれる「フェラーリ」

 そう、映画の舞台は、まだフェラーリ社が創業して間もない1950年代。より正確にいえば、1957年の3月から5月までのおよそ2ヵ月間が切り取られている。

 物語のなかでは、この頃のフェラーリ社は、モータースポーツではライバルのマセラティに負け続け、自動車メーカーとしては販売台数が伸び悩んで倒産寸前のように描かれる。「情熱はあるが、レースでもビジネスでも苦戦し続ける新興自動車メーカー」といった趣だ。

 しかも創業者のエンゾは、前年にひとり息子のアルフレッド(ディーノ)を病で失った影響で妻ラウラとの関係がギクシャクするいっぽう、愛人リーナ・ラルディとの間に子供ピエロが生まれ、本宅と愛人宅を往復する二重生活を送っていた。

エンゾ(エンツォ)・フェラーリの妻ラウラ(ローラ)を演じるのはペネロペ・クルス

 なんとも息詰まる展開のなか、エンゾは起死回生の策として、当時、絶大な人気を誇っていた公道レース“ミッレ・ミリア”での打倒マセラティを目標に掲げる。しかし、優勝まであと一歩というところで、ドライバーのひとりが大事故を引き起こし、エンゾは窮地に追い込まれる……というのが、映画のあらすじである。

 ここまでのプロットは、自動車好きの間ではよく知られたエピソードで、大きな違和感は覚えないはず。敢えていえば、1947年に創業したフェラーリは、1952年と1953年にF1チャンピオンの座を連覇したほか、ミッレミリアでも1956年にトップ3を独占する大成功を収めていた。つまり、決して新興勢力ではなく、すでに世界的なトッププレーヤーとして君臨していたのだ。

史実と虚構と真実

 ただし、私がこの映画で特に心を惹かれたのは、モータースポーツの迫力ある競技シーンでもなければ、自動車メーカーのかじ取りで苦悩するビジネスマンの姿でもない。ディーノの死に深く傷つきながらも、二重生活を送り続けるエンゾの心情に深い感動を覚えたのである。

愛人リーナ・ラルディ役はシャイリーン・ウッドリー

 エンゾは、毎朝、両親とディーノの墓を参ってから出社していたという。これは映画で描かれているだけでなく、実際にそうだったようだ。

 いっぽうで、この時期、フェラーリを操るレーシングドライバーが立て続けに事故死する悲劇にも見舞われている。そんなとき、エンゾは顔色ひとつ変えずに次のドライバーの起用をスタッフに指示したかのように、映画の冒頭では描かれている。

当時は少なくない数のドライバーが命を落としたが、写真のガブリエル・レオン演じるアルフォンソ・デ・ポルターゴも、フェラーリで事故死したドライバーのひとり

 しかし、肉親の墓参を毎日欠かさない情の深さと、ドライバーの死をなんとも思わない冷酷さが、ひとりの人間の心情として両立するのだろうか? 私には、この点がどうしても腑に落ちなかった。

 ところが、本作品を最後まで見ると、ふたつの思いの間で引き裂かれそうになるエンゾの心の内が、なんとなく理解できるようになる。そして、そんなエンゾの心情を描くうえで欠かせなかったのが、彼の二重生活だった。私には、マイケル・マンの狙いがこの点にあったように思えてならない。

 ちなみに、フェラーリ社はこの映画に寄せて、一編のインタビュー動画を作成し、それをネット上で公開している(https://www.ferrari.com/en-EN/magazine/articles/piero-ferraris-version-film-about-Enzo)。そこに登場するのは、本作品の主要な登場人物のひとりでもあるピエロ・フェラーリ、その人である。

 この動画のなかで、「エンゾはレースで勝つためなら犠牲を厭わなかったのか?」と問われたピエロは、次のように答えている。

「それは決してありませんでした。ただ、父は常に勝利したいと願っていただけです。だからといって、犠牲があって構わないとは考えていませんでした。深刻な事故が起きると、父は家に帰ってきて『もう十分だ。こんなことは続けられない。止めなければいけないんだ』と訴えるいっぽうで、月曜日になってオフィスにいくと、従業員に向けて『では、これからどうする? 私たちは前進すべきだ。そして事故を起こさないようにしなければいけない』と語りかけていたそうです」

 愛するドライバーを失ったエンゾは、おそらく、深い悲しみに包まれていたはず。しかし、栄冠を希求し、会社を繁栄させるため、エンゾは自分の苦しい胸の内にフタをしなければいけなかった。それがやがて、多くを語らず、そして自分の率直な感情を滅多に表に出さない生き方として定着していったのではないか……。

 もちろん、真実がどうだったかはわからない。ただし、エンゾをそう捉えることで、フェラーリに向けた私の愛情がより深まったことは紛れもない事実である。