大谷 達也:自動車ライター
天才のシンプルな哲学
「天才F1デザイナー」の呼び声も高いゴードン・マーレイに、私は少なくとも3度、単独インタビューをしたことがある。なかでももっとも印象深かったのは、彼の自宅を訪れ、まる1日にわたって「自動車デザインの哲学」について語ってもらったときのことだ。
F1マシーンの後部に換気扇のようなファンを設け、車体下の空気を排出してダウンフォースを生み出したブラバムBT47。エアジャッキ、タイヤウォーマー、加圧式給油装置などを用意してF1史上初のピットストップを可能としたブラバムBT50。さらにはBMW製4気筒エンジンを横倒しにして低重心化と前面投影面積の削減を達成したブラバムBT55などを生み出し、幾多のライバルたちをあっと言わせたマーレイ。続いて彼は1987年にマクラーレンに移籍するとMP4/4、MP4/5、MP4/6の3モデルをデザイン。ホンダ・エンジンを搭載したこれら3台が、アイルトン・セナやアラン・プロストにチャンピオンの座をもたらしたことはF1ファンならずともご存知のことだろう。
そして1992年に発表された“マクラーレンF1”はカーボンモノコックを始めとするF1テクノロジーを満載。ロードカーとして驚異的なパフォーマンスを実現するいっぽう、1995年のルマン24時間で「初出場、初優勝」の偉業を達成し、現在も10億円を優に超える高値で取り引きされるなど、スーパースポーツカー界の「名作中の名作」として知られている。
「これほど多彩なモデルを生み出してきたのだから、きっとクルマ作りの哲学も複雑なものに違いない」 おそらく、多くの読者はそう考えるかもしれないが、彼の話に耳を傾けると、その発想が極めてシンプルであることに気づくはず。というのも、レーシングカーやスポーツカーをデザインするときにマーレイが重要視するのは、まずは小型軽量化であり、続いてエアロダイナミクスを活用することにあるからだ。
マクラーレンF1でカーボンモノコックを用いたのはその象徴だが、実はそれだけではなく、クラッチペダルを支持するボルトには強度と重量のバランスを考えて市場には存在しない直径7mmのボルトを独自に製作したり、ロードカーとしては常識外れのフライホイールを持たないエンジンの開発をBMWに要求したという。さらにはシートに使われるレザーをわざわざ削って軽量化を図ったほか、標準装備のカーオーディオもメーカーのケンウッドに特別厳しい重量目標を提示するなどした結果、排気量6.0リッターのV12エンジンを搭載しながら1018kg(乾燥重量)という驚異的な軽さを実現したのである。
「レーシングエンジンのように鋭いレスポンスで、アクセルペダルに足を乗せただけで鋭く加速する。そんなクルマを作りたかったんです」 2006年のインタビューで、マーレイは私にそう語っている。そして、そのためには軽量化が極めて重要で、ひとつの部品でも軽量化をおろそかにすれば、その重さを支えるために周囲の部品も重くしなければならず、結果的に重量が雪だるま式にかさんでしまうことを、この日、マーレイは解説してくれたのだ。
コーナーリング性能もまったく同じロジックで、クルマが重くなればそれだけ遠心力が増し、同じサイズのタイヤで持ちこたえられる限界スピードは次第に下がっていく。ただし、タイヤを路面に押しつける力(これを垂直荷重という)を増やすことができれば、同じタイヤからより大きなグリップ力を引き出せる。そして、重量を増やすことなく垂直荷重を増やすほぼ唯一の方法が、空気の力で車体を路面に押しつけるダウンフォースである。マーレイがエアロダイナミクスにこだわる理由は、ここにもあったのである。
さらに軽くなった『T.50』
私はこうした話のすべてを2006年の段階で聞いていたが、ゴードン・マーレイ・オートモーティブ(GMA)が2020年に発表したT.50も、これとまったく同じ思想で作られていた。いや、技術が進歩した分、同じ思想をより突き詰めた形で実現したといっても過言ではなかろう。
たとえば形式的にはマクラーレンF1と同じ自然吸気式V12エンジンは、エンジン・スペシャリストのコスワースと共同開発することにより178kgの軽量設計としただけでなく、ロードカーとしては異例の最高回転数12,100rpmを達成。それでいて排気量6.0リッターで636psを発揮するマクラーレンF1を凌ぐ最高出力670psを実現したのだ。
この結果、T.50の乾燥重量は997kgと、1.5リッター・エンジンを積むコンパクトカーと変わらないレベルに収まったのである。
今回、私はこのT.50に同乗試乗という形で触れることができた。場所は、ペブルビーチ・コンクルーデレガンスなどが開催中のアメリカ・モントレー周辺。ドライバーはレーシングドライバーとしてインディ500を3度制したことのあるダリオ・フランキッティである。当初GMAのブランド・アンバサダーだった彼はやがてマーレイと意気投合し、いまは同社のブランドとプロダクトを司るディレクターに就任している。
フランキッティはまず、T.50がいかに実用的であるかを私に教えてくれた。たとえば、エンジン回転数1000rpmで5速(ちなみにT.50は全車6速マニュアル・ギアボックスを搭載する)に入れると、T.50の車速は約26km/hまで落ちるが、そこからアクセルペダルを踏み込めば、V12は何の不平を漏らすことなく滑らかに加速していったのである。こうした低速域での柔軟性は、エンジンの特性もさることながら、997kgの軽量設計が効を奏しているといえるだろう。
しかも、30〜40km/hという車速域でも乗り心地はしなやかで快適。おまけに、車速を制限するために路面に設けられた高さ30cmほどのスピードバンプに乗り上げても、ボディーが底打ちすることは一切ない。おかげで、障害物を避けるために装備されることが一般的なフロントリフトもT.50には用意されていない。これは、既存のスーパースポーツカーでは考えられないことだ。
いっぽうで、ワインディングロードでは極めて痛快な走りを披露したのである。
そもそもモントレー周辺のワインディングロードは道幅が狭く、細かく折れ曲がった低速コーナーが少なくないのだが、フランキッティが操るT.50は、このタイトなワインディングロードをいとも簡単に駆け抜けていく。コンパクトなT.50は、狭い道でもまるでモーターサイクルのようにヒラリヒラリとコーナーをかわしていけるのだ。
往年のF1マシンのごときエンジン音
しかも、自然吸気式V12エンジンのすすり泣くようなサウンドが、ドライバーの聴覚を激しく刺激するのである。
その音色は、美しく澄んでいるという意味ではフェラーリのV12エンジンとよく似ているが、T.50はもう少し中音域に厚みがあってほどよい迫力と力強さが感じられる。「これはルーフ上のインダクションボックス内で吸気音を共鳴させることで得た音色です」T.50を巧みに操りながら、フランキッティはそう教えてくれた。「適切な共鳴を生み出すため、インダクションボックスを形作るカーボンの厚みは慎重に検討されました」
そう語るとフランキッティは最高回転数ギリギリの12,000rpmまでエンジンを引っ張ってみせたが、そのときの天まで轟きわたりそうなサウンドは、やはり超高回転型だった1990年前後のF1エンジンを髣髴とするものだった。
この官能的なエンジンをマニュアルギアボックスで操るのも、またT.50ならではの世界観といえる。
いまどきのスーパースポーツカーが持つパフォーマンスをフルに引き出すなら、クラッチ操作が要らないパドルシフトのほうが有利なことは説明するまでもない。けれども、T.50で敢えてマニュアルギアボックスを採用したのは、マーレイが生み出したこの作品が、絶対的な速さより「いかにドライバーに歓びをもたらすか?」に主眼をおいて開発されたことを示す証拠といって間違いない。
そう、一般公道を低速で走らせているときでも、ドライバーをゾクゾクと刺激する官能性を生み出すためにT.50は誕生したのである。
小型軽量で狭い道でも俊敏で走れることはその象徴というべきもの。しかも、タイヤの銘柄とサイズをこれと同じ視点で選定することにより、ドライビング次第では一般公道でもタイヤの限界を引き出すことが可能とされた。ただし、これではただコーナリング限界が低いだけだが、可変式空力デバイスを装備することで、必要に応じて強大なコーナリングパワーを発揮。サーキットでも不満のないパフォーマンスを実現するという。
エンジンが低速でよく粘るのも、乗り心地が際立っていいことも、路面の段差を苦もなく乗り越えられることも、日常的な使い勝手を改善することでドライバーにストレスを与えないための配慮といえる。
さらには、スイッチやダイヤルの操作感まで徹底的に吟味して、ドライバーがコクピットで極上のひとときを過ごせるように工夫されている。軽量化のためにペダルに施されて繊細な細工や、運転中にシフトレバーが誤ってリバースのポジションに入ることを防ぐリバースロックも、すべてドライバーに操る歓びをもたらすために設けられたものだ。
「これ以上、一般道でクルマを速く走らせることは現実的ではありません」とフランキッティ。「私たちには、ただ速いだけではなく『楽しめるクルマ』が必要だったのです。そのことを、T.50ははっきりと証明していると思います」
絶対的な速さを追求するばかり、もはや一般公道ではその限界を体験することが困難になってしまった現代のスーパースポーツカー。ゴードン・マーレイが作り上げたT.50は、そんなスーパースポーツカー界に突きつけられたアンチテーゼといえるだろう。
T.50のエンジン音も聞ける! 同乗試乗動画が大谷達也氏のYouTubeチャンネルThe Luxe Car TVで公開中