大谷達也:自動車ライター

INEOS?からの誘い

「自動車ライター」を稼業にしていると、ときどき胡散臭そうな話が舞い込んでくる。旧知のPRマンであるデイヴィドから届いた今回の話がまさにそれで、もともとイギリス出身の彼はいまオーストラリアに住んでいて、新興自動車ブランドのアジア・パシフィック地域におけるPR活動を手伝っているという。

 デイヴィドから連絡をもらうのはおそらく5年ぶりだし、その頃と現在とでは住んでいるところも勤務先もまるで異なる。しかも、彼がいう新興自動車ブランド“イネオス(INEOS)”にも、まったく耳馴染みがなかった。

 それでも彼は日程まで指定してきて「都内で是非、会って欲しい」と懇願してくる。最後に彼と関わったプロジェクトもかなり冒険的なもの(夜中にオマーンの空港へひとり降り立ったときの心細さは、いまも忘れることができない)だったが、それは極めて実り大きな取材旅行でもあった。悩みに悩んだ私は、最後に「あのデイヴィッドだったら騙されてもいいか」と自分を言い聞かせるようにして、待ち合わせのホテルに向かった。

 この大事な会合にデイヴィドが参加しないというのもやや気になるところだったが、ロビーで私を待っていた男女はふたりとも若々しく、品がよく、そしていかにも知性に溢れていそうな容姿だった。それもそのはず、男性のジャスティン・ホセヴァーはイネオス・オートモーティヴのアジア・パシフィック地域代表で、女性のリン・カルダーはイネオス・オートモーティヴ全体のCEOという重職を務めているのだ。知的なのは当然だろう。

イネオス オートモーティヴの現CEO リン・カルダー

 そして、彼らから告げられる事実もまた、驚きの連続だった。

あのINEOSだった!

 まず、イギリスに本拠をおく化学系多国籍企業のイネオス・グループは2022年度の化学製品売り上げが412億ドル(1ドル=130円として約5兆4000億円)で世界ランキング第6位につけている。その現会長であるジム・ラトクリフはもともとエクソン化学に勤務していたが、1992年にイネオス・グループを買収。その後も様々な化学会社(もしくはその一部)を買収し、グループをここまでの規模に育て上げたという。

 ちなみにラトクリフの個人資産は180億ポンド(1ポンド=200円として3兆6000億円)で、「イギリスでもっとも裕福な人」とされている。

ジム・ラトクリフ氏。一緒にいるのはF1ドライバー ルイス・ハミルトン氏

 現在71歳のラトクリフはビジネスだけでなくスポーツにも強い関心を抱いていて、たとえば先ごろマンチェスター・ユナイテッドの株式の27.7%を手に入れたほか、メルセデスAMG F1チームの株式およそ1/3に相当する7500万ポンド(約150億円)分を購入したことでも話題になったばかり。そのほかにも世界最高峰の自転車ロードレースチームであるイネオス・グレナディアス(元のチーム・スカイ)、そしてヨットレースのアメリカズ・カップに挑戦するチームなども所有している。

ディフェンダーが無いなら自分で作れば良い

 そんな彼の趣味のひとつが、オフロードカーで世界中を旅することだという。なかでもオリジナルのランドローバー・ディフェンダーをこよなく愛し、自らステアリングを握ってオフロード走行を楽しむことも少なくなかったそうだ。

1948年以来、実に68年間生産されたオリジナル「ディフェンダー」

 そうした趣味が高じて、ラトクリフ自身が納得できる本格オフロード4WDをイネオス・ブランドとして開発、生産、販売する計画が発表されたのは2017年2月のこと。このとき「半年間におよぶフィジビリティスタディを経て、妥協のない4×4オフローダーを世界最大規模で生産する」と宣言。その投資として「数億ポンド(当時の為替レートは1ポンド=140円強)」を用意していることが明らかにされた。

当時のプレスリリースには「ジャガー・ランドローバーのディフェンダー生産終了によって、市場に空白が生じたとイネオスは見ている」という一文とともにジム・ラトクリフ氏とディフェンダーの写真が添えられている

 ここからプロジェクトは急速に進展し、2019年3月にパワートレインのパートナーとしてBMWを迎え入れると発表したのに続き、同年12月には車両開発のパートナーがマグナ・グループに決定したことを報告。ちなみにマグナ・グループの傘下にあるマグナ・シュタイアはヨーロッパを始めとする様々な自動車メーカーの技術支援を行っており、メルセデスベンツのGクラスもグラーツにあるマグナ・シュタイアの工場で生産されているほど、その技術力は高く、規模も極めて大きい。本格オフロード4WDの開発を独立したエンジニアリング会社に委託するなら、マグナほど理想的な企業はほかにないといってもいいほどだ。

マグナとの提携発表のリリースより。マグナ・インターナショナルはカナダに拠点を置く自動車部品のメガサプライヤーで、ボディー、シャシー、パワートレイン、エクステリア、シート、エレクトロニクスなど7グループを有する。そのうちで最大規模を誇る有名な子会社がグラーツに本社を置くマグナ・シュタイア

 そして2020年12月には、メルセデスベンツが所有していたフランスのハンバッハ工場を買収したと発表。

ハンバッハ工場

 これまで電気自動車のスマートEQフォーツーなどを生産していたハンバッハ工場は、イネオス傘下となってからもEQフォーツーの生産を継続するいっぽう、イネオスとマグナが共同開発した新オフロード4WD“グレナディア(GRENADIER)”も生産されることになる。

ハンバッハ工場でグレナディアの完成が報じられたのは2022年10月のこと

 完成したグレナディアは、ラトクリフが愛したクラシック・ディフェンダーの面影がなきにしもあらずだが、デザインもエンジニアリングもまったくの別物という。BMWから供給を受けるエンジンはガソリンとディーゼルの2種で、いずれも排気量3.0リッターの直列6気筒。ギアボックスは、こちらもドイツの名門でBMWやアウディなどが幅広く採用しているZF製だ。

イネオス グレナディア
写真は2シーターで後席部が荷台になっているユーティリティ・ワゴン

 ボディタイプはユーティリティ・ワゴンと呼ばれる商用車タイプのものから装備が充実したステーションワゴンのほか、クォーターマスター(QUARTERMASTER)と呼ばれるピックアップまでラインナップ。全長はステーションワゴンが約4.9m、クォーターマスターが5.4m強とやや大柄だが、前後サスペンションはリジッドアクスルを5リンクとコイル・スプリングで支え、センターデフにはロック機構も備えるという本格的なスペックだ。

イネオス グレナディアのインテリア

 気になる価格は、売れ筋と思われるステーションワゴンが7万6000ポンド、クォーターマスターが約7万4000ポンドなので、現在の為替レートでいえばいずれも1500万円ほどになる。ちなみに、つい先日まで発売されていたメルセデスベンツG350dの国内価格は1200万円台だったので、私が「Gクラスより高い」と指摘すると、ホセヴァーとカルダーのふたりは「そんなことはないはず」と強く否定していた。これについては、為替レートの問題なのか、それともグレード設定が異なるためなのか、その理由はついに明確にならなかった。

ピックアップタイプのグレナディア クォーターマスター

第2のモデルもリリース間近

 なお、現在イネオスは年間3万台ほどを生産。本社があるイギリスやヨーロッパだけでなく、北米、カナダ、中東、アフリカ、オーストラリア、ニュージーランドなど世界45ヶ国で販売しており、今年は中国と韓国でも販売を開始。2025年には日本市場への進出も検討しているという。さらには、今秋には第3のモデルとなるフュージリアを発表する計画で、これはピュアEV(BEV)とレンジエクステンダー(小型のエンジンを搭載してバッテリーをチャージできる機能を備えたBEVのこと)というふたつのパワートレインを用意し、グラーツのマグナ・シュタイアで生産される見通しだ。

イネオス フュージリア
フュージリアはFusilierと綴りマスケット銃兵を意味する。グレナディアはGrenadierで擲弾兵

 東京でインタビューしたカルダーは、これ以外にもニューモデルを投入する計画はあり、将来的には4〜5モデルをラインナップする方針であると明かしてくれた。

 正直、現在の年産3万台という規模は、一般的な自動車メーカーの10分の1もしくは100分の1ほどに過ぎない。この程度のスケールで、電動化が急がれる現在の自動車業界で生き延びていくのは至難の技だろうが、ロトクリフの意気込みと資産規模、さらにはそのバックにあるイネオス・グループの存在を考えれば、今後、さらに規模を拡大し、独立した自動車メーカーとして生き残ることも不可能ではないようにも思える。

 それどころか、この荒波を乗り越えるにいは、イネオスがむしろ有利と思える材料さえもあるようだ。

ゼロエミッション時代の伏兵

 そのことが明らかになったのは、取材がおおむね終わって雑談を始めたときのこと。私が「現在EU議会で議論されている『2035年以降はゼロエミッション・ビークル(一般的にはBEVや燃料電池車のような電動車のことを指す)以外の販売を禁止する』という法案はさすがに無謀に思えるが、だからといってCO2削減の努力を怠っていいわけではない」と指摘すると、カルダーは我が意を得たりとばかりに、こう語り始めたのである。

「私たちもCO2削減のことは真剣に考えています。だからこそ将来的にBEVを生産するわけですが、いっぽうでイネオス・グループはもともと化学メーカーです。したがって水素を生産することもできますし、(内燃機関に使用してもCO2を実質的に排出しない)カーボンニュートラル燃料の開発も可能です。そういった将来性があることを忘れないでください」

2023年7月にはBMWの燃料電池ユニットを搭載したグレナディアのデモ車を発表している

 自動車メーカーがカーボンニュートラル時代を生き抜くためには、エネルギー会社とのより緊密な連携が求められることは間違いない。その意味でいえば、自動車メーカーとしてのイネオスは他の自動車メーカーにも増して「骨太な存在」とも考えられるだろう。

ジム・ラトクリフ氏とイネオス フュージリア