文=中井 治郎 

人が「等間隔」で座る鴨川 写真=アフロ

私が座ってもいい場所

「私、大学が好きだったんですよね。私が座ってもいい場所がたくさんあったから」

 そんなことを言った女の子がいた。なるほど、それはあの場所のいちばん大切なことかもしれないと思った。

 たしかに、大学は一日中そこにいなくてはならない自分の座席が決まっているわけではない。たくさんの教室、そして屋内外を問わずキャンパスのいたるところにあるベンチ。そのときの気分で、思うまま、どこに座っても誰も変な顔をしない。あなたはどこに座っていてもいいし、座っているあなたを追い立てる者は誰もいない。これはあの場所を出て初めて分かることかもしれないが、案外ほかにないのだ。ああいう場所。

 長らく閑散としていたキャンパスにも少しずつ学生が戻り始めている。きっとみんなまた好きなところで腰を下ろしていることだろう。

 旅人も京都に戻り始めている。先だっての週末、秋の空の青さと仕事の絶望的な進捗にいたたまれなくなって、僕はこの狭苦しい盆地から脱走していた。「誰も止めないでくれ。これからは琵琶湖を眺めて暮らす」などと見苦しく騒ぎながら湖畔の国民宿舎に立てこもっていたのだが、ツイッターを開いてみると僕と入れ替わるように何人かのフォロワーが京都を訪れていた。陰影の冴えるお寺の写真を撮る青年もいれば、レンタサイクルでちかごろ話題の銭湯やカフェめぐりをする学生もおり、それぞれに僕のいない秋の京都を楽しんでいるようだった。

 ふと気づいたのは、みんなそれぞれの旅の途中で鴨川に座る時間を持っていたことだ。いつの頃からだろう。「せっかく京都に来たのだから、ちょっと鴨川で座っていこう」——この街を訪れる旅人たちがそう言うようになったのは。

 

鴨チルと鴨川等間隔

 そういえば鴨チルという言葉を少し前に覚えた。数年前から京都の学生たちがSNSで使い始めた言葉である。もちろん鴨川でまったり座ることを意味する。昼間だったらスタバのフラペチーノ、夜だったら甘いお酒やビールの缶などを手前に映りこませ、鴨川の水面がきらきらと光る画像を添えてポストされているのをよく見かける。

「鴨川は無料の三次会会場」——もともと、そんなふうに言われるように、学生をはじめ京都の人々が飲み会終わりに鴨川に腰を下ろして時間を過ごす(というか三次会と称して安い酒を飲む)景色は昔から見られてきたものだが、「名前がつく」というのはやはり大きなことだろう。気安い造語であっても、人は名前がつくとその行為の自分にとっての意味に自覚的になる。

 鴨川で座る人々といえば、鴨川等間隔がよく知られているだろうか。とくに繁華街である四条大橋から三条大橋のあたりにかけて多いのだが、鴨川の川辺に座るカップルたちが不思議と等間隔を形成する現象が鴨川等間隔と呼ばれるようになったものである。それが「発見」され、命名された1980年代以降はちょっとした京都名物になっている。

 鴨川等間隔と鴨チル。カップルたちが等間隔であるというのは、鴨川沿いに座る人々を橋の上から見下ろして初めて発見されるものであり、対象との距離を持った客観的な視点の名付けといえるだろう。

 一方で、鴨チルは座っている自分の体感に導かれた一人称の名付けである。橋の上から見下ろすのではなく、誰かと、またはひとりで鴨川に腰を下ろして過ごすあの時間の手ざわりに、ようやくふさわしい名前がつけられたのかもしれない。