自分の街なのに、腰を下ろせない
かつては大勢の人と街中で腰を下ろすことが闘争の手段であった時代もあった。そんな時代への憧れなのか、記録映像でしか見ないような赤いヘルメットをかぶってひとりで戦う場所を探していた酔狂な後輩がいたのを思い出す。
赤いヘルメットのまま卒業式の謝恩会の舞台に上がり込んで、晴れ着の卒業生たちに向かって誰も聞いていない演説をぶったりしていた。あの赤ヘルはなんと言っていたかな。おしゃべりの上手いやつではなかったし、あまり興味もなかったのでよく覚えていないのだが、そういえば彼もプラカードを掲げて道の真ん中に座り込んで鍋をつついたりしていた(もちろんひとりで)。その時も相変わらず要領を得ないアジテーションで、道だか街だかを取り戻す……、そんなことを言っていたような気がする。いま街で腰を下ろすためには何かを取り戻さなくてはいけないのだろうか。でも何を?
コロナで自分の街を見直す「ご近所」ブームがあった。遠くに出かけるのではなく、自宅の近くを散歩しながらこれまで見過ごしていた場所や景色を再発見する。全国の人がそうやって自分の街をぶらぶらと歩き始めた。しかし、とくに都会で暮らす人はそこであらためて気がついた人も多いだろう。カフェもあるし、レストランもある。この街には何でもあると思っていた。しかし、どこもお金を払わないとそこにいてはいけない。歩いていて、ふと思うままに気兼ねなく腰を下ろせる場所があまりに少ないのだ。
上京する若者に「気をつけろよ、都会は息をするだけでも金をとられるぞ」などと冗談めかして言うことがあるが、これはベンチなどにわざと傾斜や突起物をつけて居心地を悪くする排除アートと表裏を同じくする問題だろう。
現代社会においては都会になるほど、お金を稼ぐかお金を使うかどちらかをしている人間にしか居場所がない。そうでなければ、追い立てられるように歩き続けるかしかない。果たして、これは本当に自分の街といえるのだろうか。あの口下手な赤ヘルが言っていたのはこういうことだったのか。
京都らしさの理由は鴨川?
しかし、どんな政府のテコ入れにもビクともせずに10年、20年と続いてきた東京の転入超過がぱたりと止まり、いま、転出超過に傾き始めていることも事実だ。もちろん複合的かつ一時的な要因もあるのだろうが、コロナであらためて自分の街と向き合った結果の決断である人も多いだろう。都会に暮らす人々のそんな嘆きを目にしながら、ああ、京都は都会ではないのだな、とあらためて思った。
「祇園は神楽坂」「岡崎は上野」「四条大宮は赤羽」……、そんなふうに京都の土地柄を東京の土地にたとえて解説してみせたのは、『もし京都が東京だったらマップ』である。たしかにいわれてみれば東京と京都はともに新旧の都であり、共通点も多い。過去の都である京都の多くの場所は、現在の都である東京にも似た性格を持つ場所を見出すことができるというのも道理である。
しかし、そんなアイディアを展開した著者・岸本千佳は、一方で、どうしても東京に置き換えることができなかった場所についても述べている。それが鴨川である。どうしても鴨川のような場所を東京に見出すことができなかったのだという。東京の地名を書き込んでいく『もし京都が東京だったらマップ』のまんなかにはぽっかり空白地帯が残されてしまったそうだ。
この街を何か特別な街にしているのは、歴史ある寺社や数々の老舗などではなく、実は鴨川なのかもしれない。「京都は大きな田舎」——そう言われることもある。人によってその含意はさまざまであるが、僕もたしかにそうかもしれないと思う。この街は人口規模や経済規模の大小にかかわらず、どうやっても都会ではないような気がする。だってこの街には鴨川がある。こんな時代にあんな風の吹く場所があるのだ。