嘉子は経済的に自立しなくてはならなかったこともあり、1947年に裁判官採用願いを司法省(現・法務省)に提出。しかし、当時は女性が裁判官になることは認められていなかった。
それでも嘉子は諦めず、「男女同権の世の中になったのだから」と主張する。この朝ドラの第1回の序盤で、司法省人事課長になっていた桂場に寅子が会いに行ったのは、このときの再現に違いない。
「家裁は人間を取り扱うところ。事件を扱うところではない」
嘉子は1949年に晴れて東京地裁民事部の裁判官(判事補)に任用された。裁判官としても公正な社会の実現を目指す。1963年には歴史的な判断に深く関わった。
広島と長崎の原爆被爆者たちが国に補償を求めた民事訴訟で陪席裁判官を務め、原告の請求こそ認めなかったものの、「原爆投下は国際法違反である」との画期的な初判断を下した。今より遥かに米国の影響力が強かったころだ。この判断が端緒となり、国は被爆者救済を始めた。
1972年に新潟家裁の所長をなると、「家裁は人間を取り扱うところ。事件を扱うところではない」という名言を残す。