失われた30年で「不自由で、貧乏くさい国」になってしまった日本。社会全体には諦念が蔓延しています。そんな中で「日本の未来を担う人たち」をどうやって支援するかは大きな課題です。現在の日本社会から消えつつある「大人」がやるべきこととは何でしょうか。内田樹氏の新著『だからあれほど言ったのに』(マガジンハウス新書)より、本文を一部引用・再編集して紹介します。
(内田 樹:思想家、武道家、神戸女学院大学名誉教授、凱風館館長)
官民とも公金を私物化することに熱心に
21世紀に入って四半世紀近く経つ。今の若い人に「日本は豊かな国ですか? 貧しい国ですか?」と訊ねたら、たぶん半数以上が「貧しい国です」と答えるだろう。
GDPはかろうじて世界3位だが、一人当たりGDPは28位(2021年)。シンガポール、香港の後塵を拝しており、韓国・台湾に抜かれるのは時間の問題である。軍事力だけが例外的に突出して高いが、それ以外の「国力指標」は全面的に下がり続けている。
平均給与はOECD38か国中22位、ジェンダーギャップ指数は146か国中116位、報道の自由度ランキングは180か国中71位。貧しく、不自由で、生きづらい国なのだ。
数年前にアメリカの雑誌が日本の大学の衰退について特集を組んだことがあった。その記事の中で、今の日本の大学をどう思うか、教員学生にインタビューをした時に、彼らが実情を叙した時に用いたのは、「罠にはまった」(trapped)、「息苦しい」(suffocating)、「身動きできない」(stuck)といういずれも身体的な苦しみを表す形容詞だった。たぶんこれは今の日本社会を生きている多くの人たちに共通する実感なのだろうと思った。
現代日本の際立った特徴は、富裕層に属する人たちほど「貧乏くさい」ということである。富裕層に属し、権力の近くにいる人たちは、それをもっぱら「公共財を切り取って私有財産に付け替える権利」「公権力を私用に流用する権利」を付与されたことだと解釈している。公的な事業に投じるべき税金を「中抜き」して、公金を私物化することに官民あげてこれほど熱心になったことは私の知る限り過去にない。
税金を集め、その使い道を決める人たちが、公金を私財に付け替えることを「本務」としているさまを形容するのに「貧乏くさい」という言葉以上に適切なものはあるまい。
今の日本では「社会的上昇を遂げる」ということが「より貧乏くさくなること」を意味するのである。いや、ほんとうにそうなのだ。