最強なのに、NO.1を取れなかった謎の男、ジャンボ鶴田——。

 元『週刊ゴング』編集長の小佐野景浩氏は、誰も踏み込んでこれなかったその「謎」を解き明かすべく、取材を続けている。

「鶴田の何が凄かったのか、その強さはどこにあったのか、最強説にもかかわらず真のエースになれなかったのはなぜなのか、総合的に見てプロレスラーとしてどう評価すべきなのか――。もう鶴田本人に話を聞くことはできないが、かつての取材の蓄積、さまざまな資料、関係者への取材、そして試合を改めて検証し、今こそ〝ジャンボ鶴田は何者だったのか?〟を解き明かしていこう――」(小佐野氏)

 2020年5月には588頁にわたる大作『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』を上梓。大きな反響を呼んだ。

 それでも小佐野氏の取材は終わらない。2023年7月からはこの『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』に大幅加筆を施す形で、新たな証言を盛り込んだ「ジャンボ鶴田」像をオンラインメディア『シンクロナス』で配信し続けている。

 今回は『永遠の最強王者ジャンボ鶴田」完全版』からジャイアント馬場とともに挑戦したザ・ファンクスのインターナショナル・タッグ王座と、国際プロレスの2大エースとの白熱の戦いについてお届けする。

3度目の正直で至宝インター・タッグ王座奪取

 1973年3月にテキサス州アマリロでデビューし、同年10月の日本デビューの時点でジャイアント馬場の後継者を印象付けたジャンボ鶴田は周囲の予想を上回る成長ぶりだった。

 2年目となる74年は1月にNWA世界ヘビー級王者ジャック・ブリスコに挑戦、3~4月にNWA主要テリトリーに遠征、8月には師匠のドリー・ファンク・ジュニアとシングルマッチで日本国内初のメインイベント、12月にはNWA世界ジュニア王者ケン・マンテル、NWA世界ヘビー級王者ブリスコに連続挑戦した。

ドリーを攻略してインター・タッグ奪取

 そして74年の日本でのスケジュールをすべて終えると、馬場とともに渡米、テキサス州アマリロでドリー&テリーのザ・ファンクスが保持するインターナショナル・タッグ王座に挑戦するためだ。

 当時の全日本プロレスにはタイトルがシングルの馬場のPWFヘビー級しかなかっただけに興行の看板としてタッグ王座も必要としていた。

 インター・タッグ王座は62年に世界各地を転戦して多くのタッグ王座を獲得したオーストラリアのアル・コステロ&ロイ・ヘファーナンのザ・ファビュラス・カンガルーズが初代王者になったベルトとされている。

 その後、カンガルーズからジョージ&サンデーのスコット・ブラザーズ、カール&クルトのストロハイム・ブラザーズ、ブル&フレッドのカーリー親子、フリッツ・フォン・ゲーリング&マイク・パドーシスと移動。

 66年9月26日、大阪府立体育会館において馬場&吉村道明が第6代王者のゲーリング&パドーシスから奪取して日本に定着。馬場とアントニオ猪木のBI砲の代名詞になり、さらに馬場と坂口征二の東京タワーズが王者になるなど、力道山の遺産・インターナショナル・ヘビー王座と並ぶ日本プロレス界の至宝になったのだ。

 72年夏、馬場は日本プロレス退団及び全日本設立に際して坂口と保持していた同王座を返上。同王座は坂口&大木金太郎、ジョニー・バレンタイン&キラー・カール・クラップ、大木&上田馬之助、フリッツ・フォン・エリック&クラップに移動。エリック&クラップに移動後に日プロが崩壊してベルトはアメリカに持ち去られ、エリックとクラップがタッグを解消して新たにクラップ&サイクロン・ネグロが王者に。そのベルトをアマリロで奪ったのがファンクスだ。 

 このベルトの本当のルーツは59年3月5日にカンガルーズがマイク・デビアス&ダニー・プレッチェスから奪取した『ウェスタン・ステーツ・スポーツ・プロモーション』(通称アマリロ・テリトリー)のインターナショナル・タッグ王座だという説もあり、当時の同プロモーションのオーナーがドリー・ファンク・シニアだということを考えると、その息子のファンクスの腰に落ち着いたのは不思議な縁を感じる。

73年5月からインター・タッグ王座に君臨していたファンクス