大阪が育んだユーモアとジャズ感覚

 20世紀に入ってまもない、1907年(明治40年)10月1日、大阪で生まれた服部良一は、寺町にほど近い棟割長屋で幼少期を過ごしています。

 ある時期、父親が魚屋を営んでいたこともあり、後年、服部が笠置シヅ子に提供したヒット曲『買物ブギー』には、このときの思い出が込められていたのかもしれません。

『買物ブギー』が桂春団治の上方落語「ないもの買い」にインスパイアされたように、服部には、関西人の持つ笑いの素養が備わっていました。

 昭和の寄席で笑いをとり、「川田義雄とあきれたボーイズ」とともに、ボーイズもので知られた横山ホットブラザーズというお笑いバンドがいましたが、その生みの親、横山東六は、服部より5年早い明治39年(1906)に生まれ、映画楽士出身でもあったことからフルートやサックスなどを使った音曲漫才などで、昭和初期の関西で人気を博していました。

 サックス奏者だった若き日の服部とも同じカフェなどで仕事を共にしていたこともあり、服部が元来身につけていたユーモア感覚やいたずら好きな側面は、そうした友人や周囲の影響でいっそう磨きがかかったようです。

 いたずら好きは後年まで変わらず、来客を相手にコントのようなとぼけた味でからかう姿は、子供や孫たちにも印象深いものがありました。

淡谷のり子から始まった、ヒット街道

 さて、作曲家・服部良一の名を広く知らしめた女性歌手は、戦前は淡谷のり子、戦後は笠置シヅ子の二人です。朝ドラ『ブギウギ』では淡谷のり子の役を菊地凛子が演じています。

 淡谷のり子といえば、「ブルースの女王」として、女性の恋心をしっとりと歌う静かなイメージがありますが、そもそも流行歌手としてデビューしてから5年後の昭和10年、シャンソン『ドンニャ・マリキータ』をヒットさせ、日本初のシャンソン歌手としても知られていきます。

 服部と出会った最初の作品『おしゃれ娘』(昭和11年5月発売)では明るい曲調に乗ってのびやかに歌っていますが、これは服部がメジャーなレコード会社コロムビアに入社した直後に作曲したものです。

 翌年、淡谷はシャンソンの女王ダミアが歌った『暗い日曜日』をカバーしてヒットさせます。その陰鬱なムードを踏襲して、服部が提供したのが『別れのブルース』(詞・藤浦洸)で、この曲によって淡谷とともに服部もブレイクすることになります。