(歴史ライター:西股 総生)
土造りの城としては最強
静岡県三島市にある山中城は、戦国時代を代表する巨大な山城である。もともとこの城は、北条氏の国境要塞であったが、豊臣軍の来寇を前にして全面的なリニューアルが施され、土造りの城としては最強の防禦力をもつ戦闘施設となっていた。
関東に攻め込もうとする豊臣秀吉の大軍が、その山中城に襲いかかったのは、1590年(天正18)3月29日のこと。秀吉は、上方で留守居に当たっていた諸将に対し「昼頃、山中城に攻めかかり、たちまち攻め崩した」と書き送っている。
そこで、山中城は短時間の戦闘であっけなく陥落したように書いている歴史家が多い。しかし、当日の戦いに実際に参加した渡辺勘兵衛了(さとる)という武士が書き残した手記を読むと、現場は屍の山を乗り越えるような激戦だったことがわかる(『渡辺水庵覚書』)。
当時、勘兵衛は中村一氏(かずうじ)という武将に仕えていた。中村一氏は豊臣秀次の直轄軍団に属する子飼いの武将で、3月29日の戦闘では岱崎(だいさき)出丸の攻略を担当していた。中村隊は、出丸を制圧した後は本城内に兵を進め、勘兵衛も本丸に真っ先に突入した一人となっている。
一方の北条側は、松田康長というベテラン武将を守将として防備を固めさせていたが、さらに玉縄城主の北条氏勝を増援部隊として送り込んでいた。3月29日の戦闘の際には康長、氏勝が城の中枢部に控え、氏勝麾下である玉縄衆の主力が岱崎出丸を守備していた。
さて、激戦の舞台となった山中城は、現在でも主要部がよく残っているうえ、発掘調査の成果をもとにした復元整備も進んでいる。散策コースや案内板、トイレや休憩所なども整っているから、初心者でも戦国の山城を存分に堪能できる。
とはいえ山城は山城なので、訪れる際は足回りだけはしっかりしたい。革靴やパンプスはNGで、しっかりしたスニーカーか、できればトレッキングシューズ。動きやすい服装で荷物はリュックにまとめて、軽快に歩きたい。
さて、散策は大手口の近くにあるバス停または駐車場からスタートするが、先に岱崎出丸に向かうとよい。玉縄衆と中村一氏が激戦を交えた場所だ。出丸に入ると、戦国期の城に特有な土塁や空堀が、わかりやすく整備されている。
土塁の所々に見晴台があるので、登ってみよう。晴れた日には、正面に富士山が美しい姿を見せ、左手には三島の市街地や駿河湾が広がっている。1590年3月29日(現在なら4月下旬)の朝の情景を想像してみよう。豊臣方の大軍が三島から陸続と上ってくる様子は、ここから手に取るように眺められたはずだ。
視線を眼下に移すと、出丸を守る空堀は、内部に仕切りのようなものが並んだ不思議な形をしている。これは障子堀(しょうじぼり)といって、堀底に入り込んだ敵兵を身動きできなくするための仕掛けだ。中村隊の兵たちは、この空堀を強引に乗り越え、斜面をよじ登って出丸へ突入していったことになる。
多少なりとも城歩きの経験のある人なら、土塁が意外と小さいことに気づくかもしれない。実は、この小さな土塁こそ、戦国末期の東国でトレンドとなった築城法だ。この土塁は、上に乗って戦うのではなく、射撃のための胸壁(弾よけ)として使うためのものだ。
当時の鉄炮は、今と違って先込め式の火縄銃。弾込めに時間がかかるだけでなく、弾込めのたびにいちいち筒を立てなくてはならないから、その間はまったくの無防備になる。そこで、土塁越しに一発撃ったら、頭を引っ込めて土塁に隠れて弾込めをする。準備ができたら、身を乗り出して引き金を引く……といった具合である。ポイントは、小さな土塁が障子堀とセットになって長大なラインを形づくっていること。
この築城法と鉄炮との組み合わせは、大きな威力を発揮した。大手口の攻略を担当していたのは、中村一氏の同僚だった一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)だったが、城側の猛射にあって戦死してしまったのだ。
渡辺勘兵衛が大手口の前にたどり着いたとき、そこには数十人の死傷者が転がっていたという。突入に失敗した一柳隊の兵たちである。(つづく)
【参考図書】拙著『戦国の軍隊』では、第一章で渡辺勘兵衛の手記を読み解きながら、山中城攻防戦をドキュメント風に再現しています。城跡散策のお供に、ぜひご一読下さい(角川ソフィア文庫)。