小松帯刀

(町田 明広:歴史学者)

幕末維新人物伝2022(20)生麦事件160年ー歴史的な大転換の真相①https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/72484
幕末維新人物伝2022(21)生麦事件160年ー歴史的な大転換の真相②https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/72485

生麦事件をどのように捉えるべきか?

 文久2年8月21日(1862年9月14日)、薩摩藩国父(藩主実父)である島津久光の一行とイギリス商人リチャードソンら4人が東海道生麦村で遭遇し、薩摩藩士がリチャードソンらを殺傷した生麦事件が勃発した。リチャードソンはほぼ即死の状態で、同行したクラークとマーシャルは手傷を負い、唯一の女性であったボロデール夫人は無傷であった。

 生麦事件は確かに外国人殺傷事件には違いないが、果たして単純な即時攘夷運動の一環として片づけても良いであろうか。それまでの外国人殺傷事件は、駐日アメリカ総領事館の通弁官ヒュースケンの殺害事件(万延元年)や水戸浪士がイギリス公使館を襲撃した東禅寺事件(文久元年)であり、自分たちの正体を明かしたわけではないが、明らかに襲う側に攘夷実行の信念が存在していたのだ。

1861年10月12日のイラストレイテド・ロンドン・ニュースに掲載された、第一次東禅寺事件のイラスト。

 しかし、生麦事件においては、薩摩藩・島津久光には攘夷を実行しようなどという意図は全く存在していない。生麦事件は全くの偶発的な出来事であり、当時の慣習として、大名およびそれに準ずる久光の行列に対する作法が歴然と存在しており、それを破った者は、無礼討ちされても仕方がないという論理がまかり通っていた。つまり、日本の作法であり、法であり、当時の通念である。

 そのことを現在の私たちが、野蛮であるといった言葉で単純に非難することはできないと考える。当時は、そうした行為は当たり前であった。そもそも、相手が日本人であったとしても、間違いなく生麦事件は発生していた。薩摩藩士は久光を守るために、止むを得ずリチャードソンを殺害したのだ。